共存の盟約(1)
第三夜 偽りのドール
一見聞こえは良いが、共存なんて言葉は、裏を返せば互いに牽制するための便利な表現に過ぎない。
この会議においては特に。
元々敵対していた者同士が己の身を守る為だけに結んだ盟約なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
ヴァンパイアの牙に怯えていた人間、ハンターの影に怯えていたヴァンパイア。互いが互いに安息の地を手に入れることができたのが、この盟約の最大の利点であると一般的には考えられている。
しかし何かの歯車がどこかで少しずつ歪みを見せ始めた今、盟約の存続自体を疑問視する者たちも現れ出した。ここで再び確かなる取り決めが成されればまた、これまでの秩序も取り戻されよう。
先ほどからエルフェリスは一人、黙って会議の行方を見守っていた。公式に参加は認められてはいても、単なる同行者でしかない彼女には発言権は無に等しい。
これまでの会議も平等の名のもとに行われてきたはずだが、それはあくまでも見掛けだけの平等なのだと誰もがこの場に臨んでみて初めてそれを痛いほど実感するのだろう。
二つのヴァンパイア勢力に、一つの人間勢力。数で言っても、明らかにエルフェリスら人間側が不利になるように仕組まれている。初めから。
今回はさておき、シードの力が絶大だった時代においてはさらに人間側はこの会議に苦戦を強いられたであろう。だが完全なる傍観者に徹してしまえば、色々な思惑が案外良く見えたりするものだ。
今回の鍵は特に、ヘヴンリーというハイブリッドが握っているように思えた。この男の意見によっては長年培われてきた盟約も容易に破綻しかねない、そんな状況。
たとえば彼本人も、案外それを見越していたのだろうか。こともあろうにヘヴンリーは、ゲイル司祭を代表とする人間側に、吸血地域の拡大を打診してきたのだ。
「バカな! これ以上広げては人間の住まう土地すら奪ってしまいます! 私は反対です」
しかしそのヘヴンリーの提案に真っ先に批判の意を示したのは、人間であるエルフェリスでもゲイル司祭でもなく、ハイブリッドヴァンパイアのリーディアだであった。強く手のひらでテーブルを叩き付けながら、赤く染まった瞳を大きく見開いてヘヴンリーを睨み付ける。
「私たちは前々回も同じ要求をしていますのに、これ以上はさすがにヴァンパイアといえども私は賛成しかねます」
「ふふ。……あの時とはまた我らの状況も大きく変わっている。それに今じゃ“ドール”を持てるヴァンプの方が圧倒的に少ない。決しておかしな要求だとは思っていないが?」
厳しく眉をひそめるリーディアを嘲笑うように、ヘヴンリーは静かに唇を吊り上げるとおもむろにシードの方へと視線を走らせた。そして再び口を開く。
「もっとも、あちらの三人には関係のない話かもしれないけどな」
「っ、失礼ですわ! ヘヴンリー!」
不遜なまでに遠慮のないヘヴンリーに対してリーディアは青ざめ、文字通り牙を剝き出しにして吠えた。
しかしその挑発とも取れる発言にもシードの三人は反応を見せなかった。ただ黙って二人のやり取りを見つめているのみで。
ヘヴンリーの言わんとしていることは、ヴァンパイアの世界に一番明るくないエルフェリスにもすぐに想像の付くものであった。
つまり彼は急激に数を減らすような事態に見舞われたシードのせいで、さらなる吸血可能地域の拡大を提案しなくてはならなくなったのだ、と暗に皮肉っているのだ。
ヴァンパイアにはシードとハイブリッドの二種類があることは広く知られているが、その他にも大きく二つに分けられる特徴があることをエルフェリスは知っていた。それこそがヘヴンリーが先ほど口にした“ドール”の存在だ。
ドールとは、人間でありながらヴァンパイアによって吸血耐性を持つ体に作り変えられた者の総称で、彼らは総じて最後の一滴までその血を吸い尽くされてもなお生き続けると言われている。シードはもとより、ある程度の力のあるヴァンパイアならば、たとえハイブリッドであったとしても人間をドール化する能力は備わっているのだとエルフェリスは伝え聞いたことがあった。
果たして一体どれだけのハイブリッドがその能力を有しているのかは想像すらできないが、ヘヴンリーの口ぶりからすると大して多くはないのではないかと言う結論に達するのにそう時間はかからなかった。
ドールは時として、むやみやたらに人間狩りをせずとも済むよう末端のヴァンパイアの集落などに下賜されることもあり、一時はそのおかげもあってか人間とヴァンパイアの間には良好な共存関係が成り立っていた時代もあったようだ。
が、しかし、シードが著しく減少してしまったと言われる昨今では、ドールを所有できるヴァンパイアもかつてほどいないのだろう。境界近くの地域では人間とヴァンパイア、両者のトラブルが絶えず、血で血を洗う事件などが日常茶飯事となっていた。
エルフェリスの住まう村でもハイブリッドたちの襲撃に見舞われたことが何度もあり、その度に村人も神官もハンターも命を落としていった。
もちろんエルフェリスの暮らす村は、言わずもがな盟約で取り決められた吸血禁猟区内だ。それでも飢えたハイブリッドには共存の盟約による境界などお構いなしだったし、大胆にも境界から遠く離れた都市を襲うハイブリッド集団すらいる始末とあらば、もはや盟約など無に等しいものだと言わんばかりに被害は拡大するかに思えた。
だが、ハンターたちも黙ってそれを見ていることはなかった。各地に散らばっていたハンターの多くが境界線近くの村々に集い、連携を取り合って付近を徘徊するヴァンパイアを狩り始めたのだ。
ある時は浅く、そしてある時は深く。
ハイブリッドによって壊滅に追い込まれた人間の村も多かったが、ハンターによって滅ぼされたヴァンパイアの村もまた少なくはなかった。
名のあるヴァンパイアを討ち取ればそのハンター自身の名声も上がったことから、誰もが特にシードヴァンパイアを狩ることに躍起となった。そして互いの領域を侵犯する両者の行動が次第にエスカレートしていった結果が今の状況だ。
盟約を無視し、夜な夜な人の領域に現れ人々を喰い殺すヴァンパイアと、侵入される前にヴァンパイアを駆逐せんと息巻くハンターによって世界は混沌とし始めていた。
やらなければやられるというお互いの思惑は理解できないこともないが、エルフェリスはいつの頃からか、そうした状況を胸を突かれるような気分で見つめていた。
人でありながら、人であらざる者の気持ちまでをも汲み取ろうとするなど、自分でもどうかしているとは思うが、ハンターがヴァンパイアを仕留めたと凱旋する度に激しく心がざわめいた。
まるで何かを恐れるかのように……。
「リーディアは反対のようだけど、ゲイル司祭としてはどう?」
押し黙ったまま一点を見つめ思案するエルフェリスをよそに、無邪気に明るい声色でそう司祭に意見を求めたのは、シードヴァンパイアのレイフィールだった。
彼はこの議題に対して両者がどのような結論を出すのか興味津々のようで、そのアイスブルーの大きな瞳をきらきら輝かせながら司祭の答えを待っていた。
「レイフィール様! そのようなこと聞かずともこのような愚論……!」
「まぁまぁ良いじゃん。すぱっと終わったらつまらないでしょ? せっかくの会議なんだし、聞いてみるだけ!」
難しい表情で何とかこの議題を逸らそうとするリーディアに対して、レイフィールは「ね? お願い」と胸の前で両手を組むと、とどめとばかりに眉尻を下げながら上目遣いで瞬きを繰り返した。
それにはさすがのリーディアも、それ以上口を挟むわけにはいかなくなったようだ。長めの溜息の後片手で額を抑えて、そのまま静かに目を閉じる。
その様子を穏やかに見守った後、司祭はほっと息を吐いて、それからピンと張り詰めた空気の中を、ゆったりと流れるような口調で答えた。
「そうですね……。ヘヴンリー殿の提案ですが……以前我々は譲歩に譲歩を重ねてあなた方の条件を飲みました。結果、広げても広げずともハイブリッドによる侵食は後を絶たず、我々は常に安全なはずの土地においても怯えなくてはならない生活を強いられている。それにあなた方が考えるほど人間の数は多いとも少ないとも言えない現状を考慮しても、これ以上範囲を広げることは不可能だ」
まあ、当然の答えだろうとエルフェリスは心の内で頷いた。
十数年前、彼女の物心が付くか付かないか、そんな頃に開催された三者会議も荒れに荒れた会議であったと言われていた。
あの頃はシードもまだ数多く健在で、どちらかと言えばヴァンパイア優勢の世の中にあった当時は、会議に出てくるシードもなかなか話を聞いてくれるような人物ではなかったと先代の司祭が嘆いていた姿をエルフェリスは今でもよく覚えていた。
そんなヴァンパイアたちに圧しに圧されて彼らの領土拡大を承認せざるを得なかった前々回の三者会議。くしくもその時広げられた領内で姉エリーゼは恐らくシードヴァンパイアと出会って、そして消えた……。
これも何かの因果なのだろうか。エルフェリスを惑わすように、蝋燭の炎がゆらりゆらりと音も立てずに揺らめく。
それと同時に。
「エルフェリスとやら。お前はどう思う?」
突然話を振られてエルフェリスがはっと顔を上げると、頬杖を付いたロイズハルトと目が合った。