太古の秘術(2)
ロイズハルトの双眸が満足そうに細められて、姿を現した両方の牙の隙間を吐息とともに言葉が通り過ぎていく。
「ルイがハンターを一人、牙にかけた」
「え?」
「殺してはいない。飢えによる暴走を抑えるために、少しだけ分けてもらった、と、まあ、綺麗に言えばそうなる。どうだ? 盟約で守られた禁猟区での吸血だ。エルはルイを非難するか?」
突然投げ掛けられた質問に、エルフェリスはすぐに答えを導き出すことができなかった。せわしなく視線を地に這わせ、脳内を走り抜ける様々な思考と格闘する。
禁猟区では吸血行為を禁ず。そして吸血禁猟区外ではヴァンパイアの殺害を禁ず。
これは共存の盟約において、もっとも基本的な事項だ。
けれど現実ではどうだろう。
巷にはハイブリッドが我が物顔で人間の世界を往来し、ハンターは境界を乗り越えてまで彼らを滅ぼそうと躍起になっている。それぞれがそれぞれの思惑を抱えて、共存の盟約の最重要事項を顧みない状態だ。
この状況下では、数々の点で不利な人間たちが密かに策を練るのも無理はないと考えられた。
「……分からない……」
だからエルフェリスが答えられたのは、たった一言だけだった。
そもそも盟約で決められた禁猟区との境界は曖昧で、双方がどのように捉えるかによっても随分と内容が変わってしまうもの不安定なものだったのだから。
明確に表記されている禁猟区としての条件は、その街や村の外周とほぼ同じ距離を中心部からそれぞれ直線で結び囲んだ範囲内を差すが、街や村が密集している地域に至ってはどこまでも禁猟区となるし、また隣村までの距離が互いの範囲を超えるようであれば、道のりの合間にヴァンパイアの通り道ができることもある。
またハイブリッドなどの襲撃によって村が滅ぼされてしまえば、それはさらに拡がりを見せることも少なくない。
だから地図などにはもっぱら境界線が引かれない。そのようなものを施しても、境界は刻一刻と変わってしまうのだ。
境界を保つ為には、お互いの脅威から自分たちの領域を守り続けるしか手段は無かった。
人間たちは大陸の半分ほどに固まって生活しているのだから、おおよそ地図上で半分ほどは安心して出歩ける地域であるとの判断は付くだろう。しかし、ヴァンパイアたちが支配する領域近くに居住する人間は、その中のほんの一握りほどだった。
教会本部から任命された司祭、神官、ハンター、そして彼らを相手に商売をしようと集まる商人たちによって、ほとんどの村は構成されていた。
「命知らずで物好きなやつらだ」と、安全圏に住まう者たちはほくそ笑んでいたが、それでも特に最前線に位置する町村はなるべくその境界に穴を開けないようギリギリの距離を保って、人々を守る城壁のような役割をもって存在していた。
人命で作られる、人命のための城壁。
エルフェリスの村や、先日滅ぼされたヴィーダなどがそれにあたる。
だが、ヴィーダは無情にも、人であるハンターの手によって炎の中に姿を消してしまった。
隣村が滅びればまた、エルフェリスらの生活拠点であった村もヴァンパイアの影に脅かされるだろう。そしてぽっかりと空いた境界の穴によって、自然と後方の護りも崩れる。
エルフェリスの心は揺れていた。
「困らせるつもりは無かったんだ、すまない」
むっつりと黙り込んだエルフェリスを、ロイズハルトが苦笑をもって制する。
「な? 共存の盟約とは志こそ高貴なものだが、実際には薄氷の上に立つ城のようなものだ。いつ氷が破れて水に沈むか分からない。だからその時を想定してあらゆる手を打つんだ。……そういう時期に来ている、ということさ。嘆かわしいことだがな」
けれどもロイズハルトの言葉には、盟約に対する警告が含まれているような気がしてならなかった。
急進派のハイブリッドの反乱を収めようと必死になっている彼が、遠からず盟約の破綻を予感している。
ハンターとハイブリッドによって共存の盟約は綻び、ついには形を失って、世界は再び混乱の世に逆戻りするかもしれない。もしそうなった時には、エルフェリスはどうするのだろう。シードはどうするのだろう。
今まで考えたこともない、未知の世界がすぐそこで口を開いて待っているような感覚に襲われていた。
「少なくとも俺は、盟約を破綻させる気など無いけどな」
表情を曇らせるエルフェリスに一瞥を加え、ロイズハルトはそう言うと、かすかに赤みさす顔に優雅な笑顔をまとった。
「さて、話題を変えよう。せっかく毎日訪ねてくれると言うのに、こんな話ばかりでは気が滅入ってしまうからな」