浅い闇の淵で(4)
「……ハンターたちに恐怖を植え付けようとしたのかな……?」
「それは無いな。アンデッドくらいで怖気づくような奴は、初めからハンターなんかやらないだろうからな」
思案に思案を重ねて導き出したエルフェリスの結論は、あっさりとロイズハルトによって否定されてしまった。
「それに死霊術は他の魔法と違って複雑な手順と、それに伴う労力、そして時間が必要だ。一部のハンターたちを恐慌に陥れるためだけに使うとは思えん。
二度と反抗する気など起きないくらい徹底的に痛めつけるのなら、生贄も当然ハンターを捕え、しかもヴィーダなどという辺境ではなく、王都や教会本部の本拠地、街道沿いの大都市を狙うだろう。
彼らの無力を嘲笑う手段として、これほど有効な手は無いからな」
「あ……」
ロイズハルトの発言を受けて、エルフェリスは小さく絶句した。
確かにカイルの話では、死霊術の生贄とされたのはハイブリッドだったと聞いた。ハンターを恐慌に突き落とすためならば、同族であるハイブリッドを使うはずがないのは明白であった。
数々の武勇を誇るハンターを捕え生贄とし、なるべく多くの人間の目の前で彼らの末路を見せつけた方が、人の心理にはより深く入り込むものがあるだろう。
では、ヴィーダという土地を選んで、生贄にハイブリッドを使用したのはなぜか。
言われて確かにと納得する反面、捻った首はますます角度を深めるようだった。
「あえて騒ぎを大きくして、ロイズたちとデストロイを戦わせようとしたのかな……」
「ヴィーダが選ばれたのには恐らく、見せしめの意味が込められていたのだろうが……さて、禁術使いの考えていることとなると、おおよそ想像も付かないな。まあ、いつかは尻尾を出すだろうがな」
「出すかな?」
「出すさ。禁術使いはこの短期間にもう二度も姿を現している。あまり急激に露出すると、思わぬ落し物をしたりするものだ。例えば、足跡とか、な」
左の人差し指を突き立て、悪戯に微笑むロイズハルトであったけれど、エルフェリスの心に渦巻く疑念と不安は容易には取り除けはしなかった。
本当であれば生涯の中でまったく遭遇するはずもなかった存在に、この短い期間で二度も接近されたのである。
当然と言えば当然であった。
いつの間にか忍び寄っている見えない影に、就寝中首筋を撫でられているような感覚に薄ら寒いものすら感じる。影はふいにその手を翻し、そこにある生命をことごとく奪い去っていくのではと懸念せざるを得なかった。
あるいはロイズハルトもそう考えていたかもしれない。
「意図が掴めない以上、ヘヴンリーらは今までと同じように泳がせておくしかない。可能性だけで奴の動きを封じ込めることはできないんだ。
ヘヴンリーに付き従うハイブリッドの群れの多くは、言わずと知れた人間社会との境界近くに陣を張るように分散している。ヘヴンリーが捕えられたとなったら、奴らは一斉に蜂起し、統率者不在の群れは大地を揺るがす大波となって人間たちに襲い掛かるだろう。
そうなれば、我々だけの力では抑え込むことができないかもしれない」
可能性の一つをそう語る時、ロイズハルトは忌々しげに唇を噛み締めていた。
各所に溢れる野良のハイブリッドのどれほどがヘヴンリー側に回るか想像が付かない上に、対するシード側はたった四人と数少なく、彼らに忠誠を誓うハイブリッドの一団のみでこれらの処理に当たらねばならない。
しかも四人のうち少なくとも一人は拠点となるこの城の護りを固めなくてはならないし、他の三人もわずかな供を連れて、途方もなく広い世界を反乱者たちを討伐して回らねばならないのだ。
挟撃されて命を落とす危険も格段に増す。
そのようなリスクを抱え込んでまで、ヘヴンリーを封じ込める利点が今の時点ではまったくと言っていいほど無かった。
「いざとなったら、こちらから尻尾を掴みに行くまでだがな」
それでも不敵に笑うロイズハルトを眺めやりながら、エルフェリスの心はなお思考の彼方を彷徨っていた。
リーディア率いる保守派のハイブリッドが、どれほどの数で組織されているのかエルフェリスの知るところではなかったけれど、ヘヴンリーがあれほどまでリーディアを敵視しているところを見ると、急進派と同数、あるいはそれを上回るほどの勢力であるのかもしれないとエルフェリスは考えた。
推測は所詮推測の域を出ることはないだろうが、たいした動揺も見せないシードたちの様子を見ると、今のところはアンデッドの件を鑑みてもヘヴンリーの勢力を遥かに凌駕しているのだろう。
いろいろ思うところはあったが、何もできないエルフェリスはひとまずそう納得するしかなかった。心の底で渦巻く一抹の不安をそのまま胸の奥に押し込んで……。
それと同時に、この難問続きの日々に対して圧倒的な知識不足を痛感したエルフェリスは、すぐにでも閲覧可能な書物を片っ端から読み漁り、ヴァンパイアからも同様に知識の提供を求めようと決意した。もちろん求めるだけではなく、こちらからも与える用意はある。
互いに不可侵とする情報も多くあるだろうが、少しでも彼らの生態や歴史、立場などを理解しておかねば今後世界が揺れ動く度にエルフェリス自身もまた、大波に曝された船のようにゆらゆらと揺れ動いてしまうかもしれない。
そんなことにはならないよう、今のうちに少しでも自らを強化しておきたかった。
魔法など無くても、シードの役に立てるように。そして少しでも、彼らの近くに歩み寄れるように。
彼らの歩んできた歴史を、彼らの目線から知りたかったのかもしれない。
そんな時。
「エルの心はどこを彷徨っているんだ?」
ふいにそう声を掛けられて弾かれたように顔を上げたエルフェリスを、ダークアメジストの瞳がまっすぐに見つめていた。
「ごめん。一度考え出すとなかなか止まらなくて」
「まぁ、その辺りはレイがすでに策を練っているだろうから大丈夫だ。それより、エルもあれ以来ゆっくりと休んでいないんじゃないのか? あまり顔色が良いとは言えないな」
ロイズハルトはそう言うと、わずかに体を乗り出してエルフェリスの頬に手を伸ばした。けれどそれは触れるか触れないかのところで空を切る。
小さな苦悶の声とともに、ロイズハルトの体がベッドに崩れ落ちたのだ。
「大丈夫?」
傷口に手をやり、くの時に体を曲げて苦痛の波に耐えるロイズハルトの姿を前に、エルフェリスはどうすることもできずに狼狽えるしかなかった。
ロイズハルトの肩に手を置き、その背を支えることがエルフェリスにできる精一杯。
「魔法が使えたら……」
そして無意識のうちにそう呟く。
その声はわずかな距離を飛び越えて、ロイズハルトの耳にも届いたようだった。
苦しみ喘ぐ彼の口から割って出たものは、微風のようにエルフェリスの荒れた心を優しく撫でていく。
「そうやって、後悔することは……ひとつもない。俺はあの日、エルに護ってもらった。
吹き荒れる砂塵の中に、光が見えたんだ。エルの纏う、光がな。それに砂の嵐が……ハンターたちの視力を奪ってくれたおかげで、俺もルイも、追手から逃れることができた。
あれは、エルの放った魔法だろう?」
崩れた体はそのままに、顔だけをエルフェリスの方に向けると、ロイズハルトは三日月のように目を細め、口元に微笑を湛えた。
それに対するエルフェリスはといえば、両手で顔の下半分を覆い、必死に呼吸を整えていた。
「助けてもらっておきながら、さらなる助力を要求するのは傲慢というものだ。負い目に感じることは無い。光は光、闇は闇。力こそ相反するかもしれないが、存在はこうして交わることができる。互いを想う心には、光も闇も関係ない」
――互いを想う心には、光も闇も関係ない。
その言葉はまるでひび割れた大地に降り注ぐ春の雨のように、久しくささくれ立っていたエルフェリスの心にすうっと染み込んでいくようだった。
重く、心の奥に爪を立てていた何かからようやく解放されたような、そんな気分さえ感じていた。
口元を両手で覆ったまま、エルフェリスはこくこくと頷くと、ロイズハルトは再び笑みを深くして、そしてゆっくりと息を吐き出した。でも、その表情にはどうしてか、儚く物悲しい雰囲気が纏わり付いているような気がしてならなかった。
だがエルフェリスはそれを声に出しては伝えない。
一時の沈黙が、淡色に染まった闇の世界を支配していた。