浅い闇の淵で(1)
時期を見極めるのは得意じゃない。
けれど、いつまでも二の足を踏んでいても仕方がないと心を決めたのは、あの会合の日から十五日ほど経過した頃だった。
その日その日の状況をリーディアに尋ね、皆が寝静まる昼間、庭園のベンチで一人空を仰ぎ寝転ぶ。そんな日々を過ごしていた。
誰かに止められていたわけではないけれど、何となく尻込みして、結局はその部屋のドアをノックすることもできなかった。
無意識に目を落とし、見つめるのは自分の掌ばかり。
吹っ切ったつもりでも、心の奥底にどろどろと音を立てて溜まる憂鬱を吐き出すことは、エルフェリスにとって容易なことではなかった。
それもあって、ロイズハルトの容体が初めに比べていくらか回復の兆しを見せたようだと知ったのは、今朝のリーディアの報告によってであった。傷口も塞がり始め、ようやくドールの血を求めることもなくなったと。
彼女はそれだけを告げると眠りに就いてしまったが、何となく床に就くタイミングを失ったエルフェリスは、そのまま再び薔薇の咲き誇る庭園へと向かっていた。あそこで一休みすればまた、眠りを誘うこともできるだろう、そう思って。
白い花びらの波間に佇んで、風の流れに身を任せれば、駆け抜ける薔薇の芳香に隠れるようにふいに誰かの視線を背中に感じた。
振り返り、幾度となく周囲を見回す。
けれどそこには誰もおらず、エルフェリスは一人、訝しげに首を傾げるのだった。
「……気のせいか」
独り言を呟くエルフェリスの不安を消し去るように、太陽の光が降り注ぐ。
夜の訪れにはまだ、いくばくかの時を待たねばならなかった。
今夜もまた、そのドアの前で立ち止まった。
コホンと一つ咳払いをして、それから手早く髪や衣服の乱れを直す。それから次は深呼吸、咳払い、深呼吸。何度かそんなことを繰り返してまた、髪に手を伸ばしたところではっと我に返った。
――違う。
こんな事をしに来たわけではなくて。
躊躇いがちに揺れる世界を正すように頭を振ると、気合を入れる為に両腕に力を込めた。
そしてそれからドアに手を伸ばす。なぜか指先が震えたけれど、勢いだけが私の売り、と固く目を閉じて腹を決めると、ドアを三回ほどノックした。
ノックというよりは……力任せに拳を叩き付けているに近い気がしないでもなかったけれど、とにかく第一難関は突破したも同然だった。
あとは部屋の主の返事を待つのみ。
のはずだったが、待てど暮らせど返答はなかった。
眠っているのだろうか。そう思って一瞬踵を返そうとしたものの、後ろ髪を引かれるようにまた立ち止まると、じっとそのドアを見つめた。
「……様子を見るくらいなら……良いかな」
自問自答するように呟いて、それからまたドアに向き直る。
わずかな時を経て、エルフェリスの手はそのノブを握り締めていた。急速に汗ばんでいく掌の感覚が、緊張を伴って電流のごとく全身を走り抜けていく。
ごくりと唾を飲み込んで、一際大きく息を吸うと、意を決してゆっくりとドアを開けた。
零れる光もなく、隙間から中をうかがえば、そこには夜の闇が広がるばかりであった。物音もせず、ひっそりと静まり返っている。
「お邪魔しまーす……」
遠慮がちに声を掛けて、それからゆっくりと闇の中へと足を踏み入れた。
すべてを見渡すことはできなかったものの、次第に慣れていく目を細めながら、真っ直ぐ奥へと伸びる廊下を彼の姿を探して進む。その先には、唯一エルフェリスが足を踏み入れたことのある一際大きな書斎があるのだった。
書斎のカーテンは月明かりさえも遮るように隙間なく引かれていた。
闇に閉ざされた部屋の中ではどうしても不便さは拭えず、かといって他人の部屋で勝手に蝋燭の火を灯すわけにもいかず、わずかばかりの光を求めて少しだけカーテンを開けてみれば、乳白の淡い光が闇に彩られた室内を柔らかく照らし出す。
その光景をしばらく見やった後、エルフェリスはようやく一息ついて室内を見回した。
黒いソファの間に置かれた丸いテーブルの上は綺麗に片付けられており、しばらく使用した形跡はなかった。もちろん、そこには誰もいない。
別室へと繋がる扉が二つ、書棚の間に紛れて浮かび上がっていた。
あのどちらかがロイズハルトの寝室だろうと思われたが、ここに立っていてもやはり物音らしい物音は聴こえない。
彼の眠りを邪魔してはいけないと思案を巡らせた末に、また日を改めようと考えて、エルフェリスはもと来た道を戻ろうと身を翻した。
けれどそこで名前を呼ばれた気がして立ち止まる。
「……エル?」
もう一度、今度ははっきりと名を呼ばれた。はっと振り返り、声がした方の扉をじっと見つめる。
爪先は、エルフェリスの思考よりも先に扉の前へと向かい進んでいた。