人であるが故に(2)
「はぁ……ひとまずは大丈夫そうですね。命拾いしましたね、エル。これが私だったら、あなたの命はありませんでしたよ」
ロイズハルトの様子を一通り観察した後、ルイは深く溜め息を吐いてそう言った。
意識を取り戻しても、ロイズハルトはエルフェリスに飛び掛かっては来なかった。
彼の自制心の強さに感謝なさいとルイはしきりに繰り返したが、ロイズハルトはエルフェリスを見る度に、己の本能と戦っているかのように見えて仕方なかった。
その両の拳は震えるほどに固く握られ、吐き出される呼吸は獣のように荒く乱れ、瞳はエルフェリスを捉えないよう限界まで逸らされる。
自分の存在が彼をいっそう苦しめていると、そう思った。
「ねぇ、……ルイ」
気が付けば、エルフェリスは静かに言葉を紡いでいた。
そして同時に思い出していた。ロイズハルトにエルフェリス自身が伝えた言葉を。
ヴィーダで何があろうとも、覚悟はできている。
そうロイズハルトに言った自分の言葉を、エルフェリスは今はっきりと思い出していた。
覚悟を持って赴いたヴィーダでは、ロイズハルトとルイによってエルフェリスは幾度となく救われた。そばに在っても無くても、自分は彼らに支えられていた。そして今、ここにこうして存在している。
本当だったら、あのままカイルやデストロイに連れられて村に連れ戻されていたかもしれない。二度とあの城の薔薇を拝することができなくなっていたかもしれない。
それを、自らの危険を顧みず飛び込んで来てくれたのは、他でもないロイズハルトとルイだ。
彼らに対して今自分ができること。
たった一つだけ、方法があった。
「私の血を飲めば、ロイズの傷は本当に治るの?」
「……エル……」
驚愕に見開かれたルイの瞳が、エルフェリスを真っ直ぐ見つめていた。
だが、「何を……」と開きかけた口をルイは一旦閉じると、とっさにロイズハルトの方を見やる。
ロイズハルトは浅い呼吸を繰り返したまま、エルフェリスとは反対側を向いており、その表情をうかがい知ることは叶わなかった。
けれどエルフェリスとロイズハルトの両者を交互に見比べると、ルイは一瞬躊躇いの色をその両眼に浮かべた。
黒曜石の瞳が燭台の炎を反射して揺れている。
しかし、もう一度エルフェリスの瞳をじっと見つめると、ルイは静かに目を伏せ頷いた。
「ええ。血を含むことで我々の再生能力は活性化されます。傷を塞ぐことくらい訳ないでしょう」
「じゃあ、私の血をロイズに……」
ルイの回答を聞くや否や、エルフェリスはルイにそう申し出る。
「しかし……」
「良いの。ロイズが助かるなら、死んでも良い。二人には散々助けてもらったから……。感謝してるよ」
何かを言いたげなルイの言葉を遮って、それだけを告げる。
エルフェリスは無意識に微笑んでいた。
心に迷いなどなかった。苦しむロイズハルトをこれ以上見るよりも、自分の命をもって助けたかった。
だから決意が揺らぐ前にすくっと椅子から立ち上がると、ロイズハルトの前に歩み出そうと爪先を持ち上げる。
それとほぼ同時。
「……来る……な」
苦悶の喘ぎを交えながらそう声を絞り出したのは、他でもないロイズハルトだった。
動き出そうとしていたエルフェリスを視界に入れないように顔を大きく逸らし、何度も「来るな」と繰り返し呟く。
「え……」
「ロイズ?」
小さく息を飲むエルフェリスと、訝しげにロイズハルトを覗き込むルイの声が重なり消えていく中、ロイズハルトは再び「来るな」と呻いた。
「どうして? 死んだって良いよ! 私はあなたを助けたい!」
時おり大きく揺さぶるように走る馬車によろめきながらも、エルフェリスはロイズハルトの言葉に少なからず衝撃を受けていた。
拒絶されたことへのショックか。この世を離れなくて済むかもしれないという安堵か。
それとも、それとも……。
震える指をロイズハルトの方へ伸ばそうとすれば、今度はたった一言、「触れるな!」と怒声が飛ばされた。
その言葉に、エルフェリスの身体は完全に停止する。
どうして……。
様相のおかしいロイズハルトの身体に意識を置きながらも、エルフェリスに向けられたルイの瞳は揺れていた。
どうして……。
呆然と立ち尽くすエルフェリスに対して、ルイは眉間に皺を寄せたままゆるゆると首を振る。そしてエルフェリスの肩を掴むと、一旦座るよう促した。
けれどそれすらもできないほどに、エルフェリスはロイズハルトの言葉に動揺していた。
どうしたら良いのか分からずに、片手で額を覆う。力のこもった指先に、熱い何かが絡み付く感触があった。
「……殺したく、ない」
その時ふと、唸るような声がエルフェリスの耳を掠めていった。
驚いて顔を上げると、ルイも同様に驚いた顔をしてエルフェリスを見ている。
そしてそれから二人揃ってロイズハルトに視線を移すと、顔を大きく逸らしたロイズハルトからはなおも言葉が零れていた。
「エルを……殺したくな、……い。な、んのために、受けた傷か……分からなくなるだろ?」
絶え絶えの息の中、ロイズハルトはそう言うと、何を思ったか目を閉じて、表情を緩めてふっと笑った。
けれど次に彼の口から洩れるのはやはり、苦痛のこもった呻き声。
「ロイズ!」
「いけません、エル!」
とっさに彼に手を伸ばしそうになるところを、再びルイによって制される。出しかけた腕を自らの胸元に引き寄せると、エルフェリスはそれをしっかりと握り締めた。
「だい、じょうぶだから、エル。……だか、ら、今は……近寄らないでくれ……」
その言葉を切っ掛けとして、エルフェリスは力なくその場に崩れ落ちた。
客車の柔らかい椅子に沈みながら、背を丸め、両腕で頭を抱えると、下唇を強く噛み締める。
私が人間でなければ、この手を伸ばせたのに。
私が人間でなければ、彼をこんなに苦しめることもなかったのに。
私が人間でなければ……。
私が……。
瞳と腕の隙間を縫って、涙が一滴零れ落ちる。
ルイはそんなエルフェリスに一瞥を加えると、自らもゆっくりと腰を上げ、黙ってその隣に沈んでいった。
第五夜 fin.