風と砂(2)
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どれくらい走り続けただろうか。
ふと気が付けば、ヴィーダは遥か後方にあり、その姿も肉眼でようやく認識できるかくらいに小さくなっていた。
ここまで来ればひとまずは安心だろうと考えて、エルフェリスはようやく疲れ切った足を止めた。額から零れ落ちる汗を何度も腕で拭い、荒い呼吸を繰り返す。
本当は座り込みたい気分だったけれど、それは導き手であるデューンヴァイスによって阻まれてしまった。
エルフェリスがデマンドの待つ暗道へ辿り着かないことにはロイズハルトやルイの完全なる撤退はあり得ないのだから、と。
二人をヴィーダに置き去りにして来た手前、デューンヴァイスの指示に従うより他なかった。
彼の言う通りに行動すれば全員撤退できるとレイフィールは断言した。自分の身勝手で、これ以上事態を悪化させるわけにはいかなかった。
大きく息を吸い込んで、酸欠気味の肺に空気を送り込む。何度も何度も。
『大丈夫か? 俺がそこにいれば幾らでも抱き上げてやるんだけどなぁ』
かかかと笑う声が頭に響き渡る中を、エルフェリスは息を整えることだけに集中した。
少しでも多くの酸素を求めるついで、ヴィーダの方へと視線を向ければ、荒ぶる砂塵に阻まれてその姿を確認することはできなくなっていた。
「ロイズ……ルイ……」
二人が追ってくる気配はまだなかった。
砂の彼方にヴィーダは飲み込まれようとしている。
吹き荒れる風は、二人がまだあの場所にいるという何よりの証拠だろう。
どうか二人を守って……。
それだけを願うと、目指すべき方向へとくるっと踵を返す。
『あまりここに留まると追手が掛けられるかもしれない。部隊を二手に分けられると面倒だ』
走れるな?
デューンヴァイスは短くそう言うと、細かく方角を指定して、再び足を踏み出そうとするエルフェリスの背を押した。
***
砂の嵐に乗って身を翻し、空を舞う蝶のようにひらりひらりと群衆の間をうつろう。
身に纏う漆黒のマントでさえ体の一部と化したように、あちらこちらから突き出される鋭い切っ先を優雅にかわす。
気まぐれにその刃先に舞い降りてみては、まるで薔薇の庭園を散歩するかのごとく、剣の上を軽やかなステップを踏むように渡り歩いてみせる。
ただそれだけであったが、ハンターたちの注意を引き付けるには十分すぎる挑発となった。
武器も魔法も必要としない。なんて単純で楽な作業だろうかと、ロイズハルトは心の中で微笑んでいた。
だが、一つだけどうにも気に掛かることがあった。
『過信は危険だよ。あいつが持ってる十字架の剣……。あの剣……なんか普通じゃない……』
この場に居合わせないレイフィールですら、息を飲んで、相手方の持つ一本の剣に神経を尖らせている。
先ほどからそれは、ハンターたちと相対するロイズハルトも感じていた。
数多の仲間を斬り刻み、闇の彼方へと永劫追いやった“聖なる剣”。
神の象徴ともいえる十字の意匠を凝らしながらも、すべての暗黒を吸い取ったような黒塗の刃からはいっそ禍々しささえ感じられた。
今ここで、こうして見つめているだけでも、仲間たちの無念の声や断末魔が聞こえてくるようだ。
耳から入り込み、すべての神経に爪を立てられるような不快な不協和音を奏でている。見ればルイも何か違和感を覚えているのか、しきりに頭を振り、耳元を掌で覆っていた。
『……レイ……あれは何だ?』
少しだけ大きくなった気のするノイズに顔をしかめながら、ロイズハルトは指輪の向こうのレイフィールに尋ねた。
以前、ふらりと立ち寄ったエルフェリスの村でかの剣と相まみえた時には、このような現象に悩まされることは無かったはずだ。
ただ、十字架の意匠を凝らした剣など珍しく、ずいぶんと信心深いハンターであるなとの感想を抱いたくらいで、特にそれ以上の印象も受けなかった。
『僕にも分からない……。あの剣を向けられた奴は誰一人として生き残っていないからね……。情報がまったくないんだ』
『それは困ったな』
レイフィールの返答を聞くや否や、ロイズハルトの額から一筋の汗が零れていく。
『デューンの部屋で書物も漁ってるんだけど、何しろこの部屋汚くて……!』
焦りを含んだ声でレイフィールがそう言うと、彼の向こう側から「何だと、このクソガキッ」と怒鳴りつける声がロイズハルトの脳内に響き渡った。
デューンヴァイスならば何か知っているかとも考えたが、それはレイフィールによって否定されてしまった。百戦錬磨の猛者も、あの剣については知識を持ち合わせていないらしい。
次から次へと繰り出される剣の舞を、風に揺れる花びらのようにかわし続けながら、ロイズハルトはどうしたものかと考えあぐねた。
しかし誰も情報を持ち合わせていないのならば、仕方がない。
『とにかく最初の計画通り、奴らを追い散らそう。あの剣に関してはそれから考える!』
ロイズハルトはそれだけをレイフィールに伝えると、神経に絡み付く不快なノイズから逃れるように一度だけ、獣のごとく雄叫びを上げた。