第二話 『最初の働きアリ』
最初に理解したのは、空腹だった。
「……お腹、空いた……」
口にしたつもりだったが、実際に声が出たのかは分からない。
代わりに触角が震え、周囲へ微弱なフェロモンが漏れる。
すると近くにいた働きアリたちが一斉に反応した。
ざわっ、と。
小さな黒い身体が慌ただしく動き始める。
「うわっ!?」
真琴は思わず後退ろうとして――その場で転がった。
「え、ちょ、体!?」
身体の感覚が人間と違いすぎる。
重心がおかしい。
いや、そもそも脚が多い。
頭の中で理解していても、実際に動かすとなると全く別問題だった。
もぞもぞと脚を動かしながら、真琴はようやく自分の姿を確認する。
黒い外骨格。
細長い脚。
そして異様に膨れた腹部。
「…………」
理解はしていた。
だが、改めて視認すると精神的ダメージが大きい。
「ほんとに女王蟻なんだ……私……」
その瞬間。
ぷに、と腹部に妙な感覚が走った。
「……ん?」
ぽとり。
白い楕円形の物体が地面へ落ちる。
卵だった。
「…………」
数秒、思考停止。
そして。
「いや待って待って待ってぇぇぇ!?」
反射的に触角を振り回す。
すると周囲の働きアリたちが大慌てで集まってきた。
卵を抱える。
運ぶ。
丁寧に並べる。
その動きには一切の迷いがない。
「えっ、私が産んだの!? 今!? え、そんな自然に!?」
混乱する真琴をよそに、働きアリたちは粛々と作業を進めていく。
……妙に有能だ。
いや、アリだから当然なのだが。
「落ち着け、落ち着け私……」
真琴は触角を押さえる。
すると少しずつ、周囲の情報が整理され始めた。
湿度。
温度。
巣内部の構造。
幼虫室の位置。
食料保管場所。
働きアリの数。
「……少なっ」
全部で十数匹程度しかいない。
しかも兵隊アリはいないようだった。
完全に弱小コロニーである。
「これ、かなり危険なんじゃ……」
触角から伝わる情報を辿り、真琴は巣の状況を確認していく。
湿度は低い。
貯蔵食料も少ない。
幼虫室の保温も甘い。
おまけに通路構造が単純すぎる。
「初心者女王かここ……」
思わず研究者時代の口調が漏れた。
これでは外敵に襲われたら終わる。
いや、その前に餓死する可能性すらある。
「……まずは環境改善」
真琴は無意識に考えていた。
どこを掘れば湿度が安定するか。
どこに幼虫室を移すべきか。
働きアリをどう分配するか。
人間だった頃、何百回も考えてきたことだ。
だが今回は観察ではない。
自分が女王なのだ。
「いや、ほんとに何やってるんだろ私……」
そんな愚痴を漏らした瞬間。
働きアリの一匹が、真琴の前へ何かを差し出してきた。
小さな虫の死骸。
「……餌?」
働きアリは触角を擦り付けてくる。
食べろ、ということらしい。
「いやでも虫だよこれ?」
じっと見る。
無理。
研究対象として見るのと、食事は別だ。
「私は人間で……」
そこで言葉が止まった。
違う。
もう人間ではない。
目の前の餌から漂う匂いが、異様に美味そうに感じる。
「…………」
しばらく葛藤し。
「……いただきます」
真琴は恐る恐る口をつけた。
「美味しいんだけど!?」
衝撃だった。
噛んだ瞬間、濃厚な栄養が全身へ広がる。
高タンパク。
高エネルギー。
脳が歓喜している。
「えっ、待って、これ感覚ヤバ……」
気づけば夢中で食べていた。
周囲の働きアリたちが、どこか満足そうに触角を揺らしている。
「見ないで」
恥ずかしかった。
いや、アリに羞恥心を感じるのもどうかと思うが。
だが栄養を摂ったことで、頭はかなり回るようになった。
「まず食料確保……それと湿度管理」
真琴は巣を見渡す。
まだ狭い。
脆い。
小さい。
だが。
この程度なら、どうにでもなる。
研究者として培った知識がある。
コロニー運営理論も理解している。
「……よし」
触角を震わせる。
すると働きアリたちが一斉に反応した。
空気が変わる。
群れが、自分の意思に従って動き始める感覚。
その瞬間。
奇妙な高揚感が、真琴の中を駆け抜けた。
「これ、ちょっと楽しいかも……」
自分の言葉に、真琴ははっとする。
危険だ。
この感覚は危険すぎる。
だが。
巣が動く。
群れが働く。
自分の意思でコロニー全体が機能していく。
その快感は、抗いがたいものだった。
――その時。
ぶるり、と巣全体が震えた。
真琴の触角が跳ねる。
「……外?」
振動。
重い足音。
そして。
異質な匂い。
捕食者。
その瞬間、働きアリたちの空気が一変した。
緊張。
警戒。
恐怖。
真琴は巣の出口方向を見つめる。
外に、何かいる。
しかもかなり近い。
「……転生初日なんだけど!?」




