エンド・オブ・シャドウ
名を呼ぶことは、
扉を叩くことと同じだ。
その向こうにあるのが、
希望か、破滅か――
選ぶのは、呼んだ者自身である。
廃坑を出たとき、外の空は異様なほど青かった。
まるで、さきほどの闇など存在しなかったかのように、雲一つない空が広がっている。
だが、アイラの胸の奥では、何かが確かに“目を覚ました”ままだった。
《……さっきのは、影の“末端”だよ》
肩の影が、低く囁く。
「末端……?」
《うん。あれは“主”の意識の欠片。
だから、名を呼べば――もっと近づく》
イリスが、きゅっと杖を握りしめた。
「……そんなこと、できるわけがない」
「でも」
ノエルが静かに言う。
「もう、巻き込まれてる」
その言葉に、誰も反論できなかった。
集落へ戻ると、門前の人々が騒然としていた。
見張り台の鐘が鳴り、遠くの森から黒い影がうごめいているのが見える。
「……また、来たの?」
《違う》と影が否定する。
《今度は“呼ばれて”いる》
黒霧のような魔物の群れが、街道を覆い尽くす。
その中心で、廃坑の異形と同じ“脈打つ核”が、赤黒く輝いていた。
《あれは……“共鳴点”》
影の声が、震えた。
ノエルが剣を構える。
「……時間を稼ぐ」
イリスも、詠唱を始める。
「光よ、境となれ。我を守れ――《ルクス・シールド》」
淡い結界が広がり、人々を包む。
だが、影の群れは止まらない。結界に触れ、削るように侵食してくる。
《……今なら、届く》
影が、耳元で囁いた。
《“名”を呼べば》
胸の奥で、あの“空白”が疼く。
ノエルの背中が、群れの中に呑まれかける。
――失いたくない。
その感情が、喉の奥で言葉になる。
「……やめて」
《選ばないの?》
影が、優しく、しかし逃がさぬように囁く。
《呼べば、終わるよ。
ここにいる“すべて”が》
結界が、軋み始めた。
アイラは、深く息を吸う。
背中の刻印が、熱を帯びる。
言葉は、まだ出ない。
だが、世界の奥で――
“扉”が、確かに震え始めていた。
結界が、悲鳴のような音を立ててひび割れた。
黒霧が隙間から滲み、触れた地面が灰のように崩れていく。
「……もう、限界よ!」
イリスの声が震える。
ノエルは群れの只中で踏みとどまり、刃を振るい続けていた。
だが、影は削れても、すぐに“戻る”。
終わりが、見えない。
《……今だ》
肩の影が、静かに言った。
《君が呼べば、世界は“応える”》
胸の奥に、崩壊都市の“空白”が蘇る。
失う感覚。削られる恐怖。
それでも――目の前の背中が、遠ざかりそうだった。
「……ノエル!」
声は、風に溶けた。
《名を》
影が、促す。
《“扉”を叩く言葉を》
アイラは、目を閉じた。
息を吸い、世界の底へと意識を沈める。
闇が、応える。
刻印が、熱を放つ。
そして――詠唱が、胸の奥から溢れ出した。
「聞け、
始まりに拒まれし闇。
見よ、
終わりを許されぬ影。
名を持たず、
歴史にも刻まれず、
それでも
消えなかった者たちよ。
星が落ちるよりも前、
海が夜を抱くよりも前、
すべてが“意味”を持つ
前の場所へ。
還れ。
消えよ。
そして――
二度と、
名を呼ばれるな。
《エンド・オブ・シャドウ》」
空気が、裂けた。
闇は“光”のように降り注ぎ、黒と白の境界が溶ける。
影の群れは、触れた瞬間に“消える”のではなく、
最初から存在しなかったかのように、世界から剥がされた。
核が、悲鳴を上げる暇もなく崩壊する。
静寂。
結界の中に、音が戻る。
人々の息遣い。
風が、再び流れ始めた。
イリスは、呆然と空を見上げる。
「……今のは……」
ノエルは、ゆっくりと振り返った。
その瞳に、安堵と、かすかな恐怖が交じる。
《……開いたね》
影が、満足そうに微笑んだ。
《“扉”は、確かに》
アイラは、膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
胸の奥が、まだ熱を帯びている。
世界は、救われた。
だが――何かが、確実に近づいた。
遠いどこかで、
“名を呼ばれた存在”が、ゆっくりと息を吸った。
それが何者か、
彼女はまだ知らない。
だが、世界はもう――
後戻りできない場所へ踏み出していた。




