魔王の影
名を知る前に、
人は“気配”を恐れる。
それはまだ姿を持たず、
それでも確かに――世界を歪めている。
集落の門前に残った緊張は、霧のように晴れなかった。
私兵との小競り合いは、互いの出方を探るだけで終わった。だが、彼らの視線に宿る“確信”が、アイラの背を刺している。
刻印は布の下で静かだ。
それでも、脈打つ“気配”だけは消えない。
《さっきの連中……ただの番犬じゃない》
肩の影が、いつになく低い声で言った。
《世界を“延命”させている側の匂いがする》
「延命……?」
《うん。壊れないように、壊し続ける人たち》
その言葉の意味を、まだ噛みしめる余裕はなかった。
門の内側から、集落の長が駆けてくる。顔色は悪く、声は掠れていた。
「外から来た方々……昨夜、北の廃坑で“影”が出た。兵は追い払われ、見張りが戻らない。助けてほしい」
イリスが一歩前へ出る。
「その“影”は、どんな……?」
「黒い霧のようで……声が、聞こえたと。呼ぶような……」
アイラの胸が、ひくりと痛んだ。
影が、静かに息を詰める。
《……来た》
廃坑へ向かう道は、土と煤の匂いに満ちていた。崩れた支柱、落ちたランタン。そこかしこに“逃げた跡”がある。
坑道の奥で、冷たい風が逆流した。
音が、吸い込まれる。
「……静かすぎる」
ノエルが剣を構える。
その瞬間、足元の影が伸びた。
まるで“床が呼吸している”ように、黒が波打つ。
《……聞こえる?》
影の声が、甘く、遠くから届く。
《“向こう”の足音》
壁に、歪んだ人影が浮かんだ。
形は人に近い。だが輪郭は崩れ、内部で闇が蠢いている。
「……異形」
イリスが息を呑む。
影は、こちらを“見る”と同時に、坑道全体が震えた。
重い圧。胸を締めつける恐怖。だが、それ以上に――“懐かしさ”。
《ああ……》
影が、喜びを含んだ声で囁く。
《同じ“深さ”だ》
アイラの背中が、熱を帯びる。
刻印が、呼応する。
ノエルが前へ出る。
「来るぞ!」
異形が、腕のような影を振り上げた。
岩が砕け、粉塵が舞う。
イリスは即座に詠唱を始める。
「光よ、境となれ。我を守れ――《ルクス・シールド》」
淡い光の壁が展開し、衝撃を受け止めた。
だが、壁は軋む。圧が強すぎる。
《……“主”の影》
影が、初めて“名を避ける”ように言った。
《まだ姿は遠い。でも、確かに近い》
「主……?」
アイラの声が震える。
《世界を歪める“中心”だよ。君たちが探している――いや、探されている存在》
異形が、再び迫る。
ノエルが斬り込み、イリスが光を重ねる。
だが、影は消えない。
“削れても、戻る”。
《ねえ》
影が、耳元で囁いた。
《この“源”に、名前をつけるとしたら――》
言葉が、喉に絡む。
まだ名は、出さない。出せない。
だが、世界はすでに――
その“影”に、触れてしまっていた。
異形の影が、坑道の天井を這うようにうねり、再び降り注いだ。
触れれば、身体が“削られる”感覚。痛みではない。存在そのものが、薄く剥がされる。
イリスの光が走る。
「光よ、満ちて奔れ。闇を退け――《レディアント・ウェーブ》」
白い衝撃が闇を裂く。
だが、影は崩れながらも“核”のような黒点を残し、そこから再生した。
《……そこ》
肩の影が、息を呑む。
《あれが“中心”》
ノエルが地を蹴った。
刃に淡い無属性の輝きが宿る。
ノエルは息を詰め、
刃に触れた言葉だけを“短く”噛みしめた。
「無よ、断て。崩せ――《ノア・エッジ》」
黒点へと斬り込む。
だが、刃は途中で弾かれ、衝撃でノエルの身体が壁へ叩きつけられた。
「ノエル!」
アイラの胸が、きつく締めつけられる。
“失う”という予感が、再び湧き上がる。
《呼んでる》
影が囁く。
《その“名”を》
背中の刻印が、熱を帯びた。
だが、まだ“力”を放つには至らない。
――違う。これは、呼ばれている。
異形の核が、脈打つ。
その鼓動に、世界の奥底の“反響”が重なった。
《彼は――》
影の声が、言いかけて、止まる。
坑道が、軋んだ。
遠く、重い“何か”が目を覚ます気配。
イリスが、必死に光を重ねる。
「……これ以上、近づけさせない!」
ノエルが立ち上がり、血を拭う。
「……名を出すな。今は、まだだ」
その言葉が、奇妙に重く響いた。
異形は、突如として霧のように崩れ、
坑道に“冷たい静寂”だけを残した。
だが、消えたのではない。
――“退いた”のだ。
《覚えておいて》
影が、静かに言う。
《世界の深いところに、“彼”はいる》
アイラは、闇に残る余韻を見つめた。
名は、まだ出さない。
だが、確かに――
“影の主”は、世界の向こうで、息をしている。




