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刻印戦記アウレア ~愛した貴女の最後の言葉を、私は信じている~  作者: 叶詩


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ごめんね

ごめんね、という言葉は、

謝罪じゃない。


許しを求める言葉でもない。


それは、

「もう同じ場所には戻れない」と

自分で理解してしまった人間が、

それでも相手を手放したくないときに、

最後に選ぶ言葉だ。

 夜は、静かだった。


 監獄の街を抜けたあとの世界は、

 不思議なほど“普通の闇”を取り戻していた。


 空は低く、雲はなく、

 星は規則性を持たないまま、ばらばらに瞬いている。

 風は冷たく、乾いていて、

 頬を撫でるたびに現実だけを残していった。


 遠くで虫の声が鳴いている。

 どこかで小動物が草を踏む音もする。

 完璧でも、整然でもない。

 だが――ちゃんと“生きている世界”の音だった。


 アイラは、焚き火の前に座っていた。


 炎は安定せず、

 揺れながら、明るくなったり暗くなったりを繰り返す。

 燃え残った木の断面が、赤く脈打つように光っている。


 その揺れを、ずっと見つめていた。


 見つめながら、

 何度も言葉を探しては、

 結局、どれも口に出せずにいる。


 隣には、イリスがいる。


 同じように焚き火を見つめ、

 ローブの裾をぎゅっと握りしめたまま、

 ほとんど身じろぎもしない。


 二人の距離は、近い。

 肩が触れれば、すぐ分かるほど。


 けれどその距離は、

 もう“共有できる近さ”ではなかった。


 沈黙は、気まずさではない。


 言葉にした瞬間、

 何かが“確定してしまう”と、

 二人とも理解している沈黙だった。


 焚き火が、小さく爆ぜる。


 乾いた音が、夜の空気を裂いた。


 その一瞬の音に、

 アイラは現実へ引き戻される。


 逃げられないと、理解してしまう。


 「……イリス」


 名前を呼ぶだけで、

 胸の奥が、ひどく痛んだ。


 喉の奥が締めつけられ、

 声が少しだけ掠れる。


 イリスは、すぐに振り向かなかった。


 ほんのわずか、

 時間がずれたような間。


 それから、ゆっくりと顔を上げる。


 「……なに?」


 声は、優しかった。

 問いかけるというより、

 待っていた人の声だった。


 だからこそ、余計に苦しかった。


 アイラは、視線を逸らした。


 炎を見つめたまま、

 言葉を選ぶ。


 いや――

 選べていない。


 どんな言葉を並べても、

 この距離を埋められないと、

 もう分かってしまっている。


 「……私」


 喉が、ひどく乾く。


 自分の声なのに、

 やけに遠く聞こえた。


 「もう……前みたいには戻れない」


 イリスの指が、わずかに動いた。


 ローブの布を、

 無意識に、強く握りしめる。


 指先が白くなるほど。


 「……うん」


 それだけの返事。


 否定しない。

 驚きもしない。


 まるで、

 ずっと前から知っていたみたいに。


 アイラは、胸に手を当てた。


 刻印の上。


 そこが、まだ微かに熱を持っている。


 脈打つたび、

 “もう戻れない”という事実だけが、

 身体の奥へ沈んでいく。


 「私……世界を信じられなくなった」


 言葉にした瞬間、

 それが“決意”ではなく

 “告白”だと気づく。


 思想でも、覚悟でもない。


 ただの、

 どうしようもなく正直な感情だった。


 「誰かが決めた正しさとか、

  救済とか、選択とか……」


 息を吸う。


 肺の奥が冷える。


 「全部、分かったつもりだったけど」


 吐く。


 「……もう、受け入れられない」


 イリスは、しばらく何も言わなかった。


 焚き火の光が、

 彼女の横顔を照らす。


 睫毛の影が、頬に落ちる。


 その表情は、

 泣いているようにも、

 微笑んでいるようにも見えた。


 「……アイラ」


 ようやく、イリスが言う。


 声は低く、

 夜に溶けるような静かさだった。


 「それ、謝ることじゃない」


 アイラは、首を振った。


 小さく、

 でもはっきりと。


 「違う……」


 声が、震える。


 「私は、あなたの世界も、

  一緒に壊した」


 言葉にした瞬間、

 胸の奥で何かが崩れる。


 イリスの瞳が、わずかに揺れた。


 「あなたは、まだ信じてたのに」


 「光とか、祈りとか……

  それでも世界は変えられるって」


 「なのに私は――

  その全部を、否定した」


 言葉が、胸の奥からこぼれ落ちる。


 考えていたわけじゃない。

 止めることもできない。


 ただ、

 ずっと押し込めていたものが、

 勝手に外へ出てきただけだった。


 「だから……」


 ここで、ようやく言葉になる。


 「ごめんね」


 イリスは、目を見開いた。


 一瞬、何か言おうとして、

 でも、言葉を失う。


 唇が、わずかに震える。


 沈黙が、二人の間に落ちる。


 夜風が、焚き火を揺らす。


 星が、一つ、流れた。


 イリスは、ゆっくりと笑った。


 とても、小さく。


 とても、優しく。


 「……それ、ずるいよ」


 「え……?」


 「そんな顔で“ごめんね”って言われたら……」


 イリスは、少しだけ視線を落とす。


 焚き火の光が、瞳に揺れる。


 「……引き止められないじゃん」


 その言葉で、

 アイラの胸が、ぎゅっと締めつけられた。


 イリスは、続ける。


 「私は、まだ信じたい」


 「世界が正しいとか、

  光が救うとか……」


 「たぶん、間違ってるかもしれないけど」


 小さく息を吸う。


 「それでも、私は“そういう人”でいたい」


 アイラは、唇を噛みしめた。


 分かってしまう。


 これは、別れの会話だ。


 喧嘩でもない。

 裏切りでもない。


 ただ――

 同じ場所に立てなくなった二人の、

 静かな分岐点。


 イリスは、アイラを見つめる。


 「あなたは、もう戻らないんでしょ」


 それは質問じゃなかった。


 確認ですらなかった。


 答えを知ったうえで、

 口に出した言葉だった。


 アイラは、ゆっくりと頷く。


 「……うん」


 イリスは、目を閉じる。


 ほんの一瞬。


 それから、もう一度笑う。


 今度は、ちゃんとした笑顔で。


 「じゃあ……」


 「これは、さよならだね」


 アイラの喉が、詰まる。


 何か言いたい。

 引き止めたい。

 一緒に行こう、と言いたい。


 でも、それは――

 もう、言ってはいけない言葉だ。


 イリスは、最後に言った。


 「アイラ」


 「あなたが世界を壊すなら……」


 「私は、その外側で、

  世界を信じ続ける」


 それは、対立じゃない。


 選択の違いだった。

 生き方の違いだった。


 アイラは、静かに答える。


 「……うん」


 そして、もう一度だけ言う。


 「ごめんね」


 今度は、謝罪じゃない。


 別れを理解した者同士の、

 最後の合言葉だった。


 焚き火の炎が、

 二人の影を、別々の方向へ伸ばす。


 同じ場所に座っているのに、

 影だけが、もう交わらない。


 それが――

 本当の別れだった。

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