すれ違う心
傷ついたのは、
身体よりも、
信じていた“距離”だった。
夜明けの光は、思っていたより冷たかった。
霧がゆっくり引き、瓦礫の輪郭が浮かび上がる。崩れた建物の影が地面に長く伸び、癒えない傷みたいに横たわっていた。焦げた石と魔力の残滓の匂いが混じり、昨夜の戦いの余熱だけが、この場所に居残っている。
アイラは瓦礫の影に立っていた。靴底から伝わる冷えた地面の感触が、現実を強く突きつける。胸の奥の鈍い痛みは、身体の傷じゃない。――言葉にならなかった感情の痕だ。
数歩先で、イリスが朝の祈りを終え、ゆっくり振り返る。
だが視線は合わない。踏み込めずにいる距離だけが、はっきりと存在していた。
「……ノエルは?」
問いは小さく、霧に溶ける。
アイラは首を振る。
「……いない」
それだけで十分だった。戻らない。戻れない。二人とも理解している。
ルクが肩の上で小さく動いた。
《……選んだんだ》
慰めでも責めでもない。ただ、事実を落とす声。
アイラは拳を握る。爪が掌に食い込み、わずかな痛みが走る。
「私は……間違えたのかな」
イリスはしばらく黙ってから、ゆっくり首を振った。
「間違いじゃない。
ただ……違う選択だっただけ」
優しい言葉が、胸の奥を深くえぐった。
優しいからこそ――逃げ場がない。
アイラは瓦礫の隙間に残る痕を見つけた。乾いた血の跡。踏み砕かれた石片の向き。結界を断ち切った痕に残る、微かな魔力の残滓。
偶然じゃない。
戦い慣れた者が、迷いなく通った痕だ。
アイラは膝をつき、指先で地面に触れる。そこだけ空気がわずかに冷える。時間が遅れているみたいに。
――ここを通った。
そう思った瞬間、胸の奥が締めつけられた。振り返らずに進んだという事実が、静かに突き刺さる。
「……追うつもり?」
背後から、イリスの声。責める調子でも、止めるためでもない。確認だけがある。
アイラは答えない。言葉より先に体が動いていた。
ルクが、低く囁く。
《ここから先は、“戻る”道じゃない》
警告。
同時に確認。
アイラはゆっくり立ち上がり、膝の震えを意志で押さえ込む。
「……置いていけない」
短い声に、すべてを詰めた。
イリスはしばらく黙っていた。風が髪を揺らし、朝の光が輪郭を縁取る。やがて目を閉じる。一瞬、祈るみたいに。そして目を開く。
「分かってる。
だから――一緒に行く」
胸の奥が少しだけ軽くなる。
同時に、別の重さが加わった。
“二人で選ぶ”という責任の重さ。
二人は痕を辿り、崩壊都市の外縁を抜ける。人の気配が消えた石の道へ。かつて生活があった場所だ。崩れた家屋、折れた柱、風に揺れるだけの看板。今は風が吹き抜けるだけの廃道。
アイラは歩きながら思い出す。
ノエルが何度も前に立ってくれたこと。剣を構え、盾となり、それでも決して“選ばせなかった”背中。
「……どうして、言ってくれなかったんだろう」
呟きは足音に溶ける。
イリスは少し考えてから、静かに言った。
「言ったら……戻れなくなるって分かってたから」
その一言が、胸を強く締めつけた。
やがて道の先に、新しい足跡が現れる。重く、規則正しい。王族私兵の歩き方だ。“追う側”の歩幅。
ノエルは追われている。
――いや、自分から追わせている。
遠くで雷鳴のような音がした。魔力の衝突。地面が微かに震える。
まだ戦いは終わっていない。
そして――選択も、終わっていない。
アイラは視線を上げる。
「……ノエル」
その名を呼ぶ声は、迷いではなく決意を帯びていた。
この追跡は、再会のためじゃない。
“何を守り、何を切り捨てるのか”――
その答えを、奪われないためだ。




