守りたいもの
守るという選択は、
世界を正すためじゃない。
それでも失いたくない何かが、
そこにあるからだ。
正しさではなく、
温度のある名前のために――
人は、刃を取る。
祈りの声が、まだ遠くで揺れていた。
丘を離れてからも、その残響は風に混じり、何度も耳の奥をかすめる。
白い旗がはためく光景が、薄い膜のように脳裏に貼りついて離れない。
だが、足元の土の感触は確かだった。
冷たく、硬く、確かに“今”がここにあると告げている。
アイラは、歩きながら何度も背中の刻印に触れた。
拒んだはずなのに、
その鼓動は、以前よりも強く、はっきりと主張している。
まるで、拒絶すら計算の内だと嘲笑うかのように。
「……世界は、簡単には変わらない」
ノエルが、ぽつりと呟く。
吐く息は白く、声には、疲労と覚悟が混じっていた。
イリスは、遠くの山影を見つめる。
その輪郭は、霞の向こうでぼやけている。
「でも……変わらないからこそ、
私たちがいる」
その言葉に、アイラはわずかに微笑んだ。
ほんの一瞬だけ、胸の奥が温かくなる。
だが、その瞬間だった。
空気が、裂ける。
乾いた衝撃音が耳を打ち、
次の刹那、足元の地面が爆ぜ、土と石が舞い上がった。
「伏せて!」
ノエルの叫びと同時に、
森の奥から黒い影が躍り出る。
魔物。
だが、ただの異形ではない。
王族の紋を刻まれた、調整済みの個体。
人工的に増幅された魔力が、周囲の空気を歪ませていた。
「……実験兵」
イリスの声が、低くなる。
アイラは、一歩前へ出た。
背中の刻印が、熱を帯び、鼓動と重なる。
《……守れ》
ルクの声が、胸に響く。
彼女は、深く息を吸い込んだ。
これは、思想の戦いじゃない。
失いたくない“今”のための戦いだ。
魔物は、音もなく距離を詰めてきた。
脚部の関節は不自然に歪み、地を蹴るたび乾いた軋みが走る。
血の匂いではない。加工された魔力の臭気が、湿った森の空気を裂いていた。
「……人を、兵器にした痕跡だ」
ノエルが歯を噛みしめる。
魔物が咆哮する。
圧縮された空気が弾け、衝撃波が三人の間を裂いた。
イリスが一歩前に出る。
「下がって、アイラ!」
彼女の掌に、白い光が集まる。
呼吸が、ひとつ落ちる。
「応えよ、天に満ちる白き息。
夜を照らし、名もなき者を包み込んできた光よ――」
光は“盾”として世界に縫い止められる。
《ラディアント・セラフィム》
柔らかな輝きが広がり、衝撃と瘴気を受け止める。
だが、魔物は止まらない。障壁を押し潰すように、歪んだ魔力を重ねてくる。
「……強引すぎる」
アイラは奥歯を噛みしめた。
背中の刻印が、焼けるように熱を帯びる。
血の奥で、黒い脈動が応えた。
《……“今”だ》
ルクの声が、胸の内側で低く響く。
アイラは一歩踏み出す。
唇が、かすかに動く。
世界が、呼吸を止める。
影が、足元から“立ち上がる”。
「集え、
境界に棄てられし影よ。
光に灼かれ、
闇に抱かれ、
それでも名を持たぬ者たちよ」
――沈黙。
木々が揺れる音が、遠ざかる。
「我が声に応え、
我が血に宿り、
世界の狭間へと還れ」
闇は“凝縮”され、空間の奥行きを押し潰す。
「凝縮せよ。
重なれ。
崩れよ」
影は、球体となって膨張する。
呼吸が、ひとつ。
「いま、終焉はここに集う――」
世界が、名を思い出す。
《シャドウ・バースト》
闇と闇がぶつかり、
衝撃が森を震わせた。
爆風が霧を吹き飛ばし、
地面に深い爪痕を刻む。
魔物は、断末魔も上げず、
影の中へと“還って”いった。
静寂。
残ったのは、焦げた土と、
震える三人の呼吸だけだった。
イリスが、そっと呟く。
「……守れたわね」
アイラは、足元の影を見下ろし、
小さく頷いた。
守るために、壊した。
その事実が、胸の奥で、確かな重さを持っていた。




