影の声
影は、問いではない。
答えでもない。
それでも――
名を呼ばれた瞬間、
世界に“居場所”を持ってしまう。
白い光が、ゆっくりと引いていった。
そこに残ったのは、境界のない空間。
上も下も、遠近も、すべてが溶け合い、輪郭を失っている。
まるで、世界が“まだ言葉を持たなかった頃”の名残のようだった。
足元に影はない。
地面と呼べるものすら存在しない。
アイラは、自分が“立っている”という感覚だけを頼りに、
その白の中に身を置いていた。
息を吸う。
だが、肺が膨らむ感触は、どこか遠い。
「……ここは?」
声は、白の奥に吸い込まれ、
反響も残さず、消えていく。
返事は、すぐには来なかった。
沈黙が、音の代わりに広がる。
それでも、彼女は感じていた。
この空間の“奥”で、確かに何かが息をしている。
《……ずっと、ここにいた》
その声は、距離も方向も持たず、
それでも、はっきりと胸の内側に届いた。
アイラは、無意識に拳を握りしめる。
拒絶したいのに、逃げ場はない。
「……あんたは、何?」
問いは、白を震わせた。
しばしの沈黙。
空間そのものが、わずかに揺らぐ。
《私は、境界に残された“誤差”》
《選ばれなかった世界の、最後の欠片だ》
その言葉は、冷たく、
それでいて、深い哀しみを帯びていた。
「……嘘」
アイラは、喉の奥から絞り出すように言った。
「そんなの、信じられない」
《信じなくていい》
《だが、私は消えない》
白の中に、かすかな影が滲む。
それは、彼女の足元へ戻ろうとしているようだった。
「……どうして、私なんかに?」
《お前が、拒んだ》
《それだけだ》
胸の奥で、何かが痛む。
選ばれることを拒むということ。
それは、世界そのものを拒むこと。
《私は、お前が選ぶまで、ここにいる》
声は、そう告げ、
再び、白の奥へ溶けていった。
白は、まだ消えていなかった。
だが、先ほどよりも“奥行き”が生まれている。
何もないはずの空間に、わずかな重さが満ち、
それは、まるでこの場所そのものが“息を始めた”かのようだった。
アイラは、胸の奥を押さえる。
影の声は、消えたはずなのに、
耳ではなく、心に残る“残響”のような感触が離れなかった。
「……待って」
言葉は、命令でも問いでもない。
ただの、願いだった。
白の奥で、かすかな揺らぎが生まれる。
空間が、ゆっくりと波打つ。
《……何だ》
再び響いた声には、
ほんのわずかな“躊躇”が混じっていた。
アイラは、ゆっくりと目を閉じる。
拒んできた。
遠ざけてきた。
それでも、あの声は、ずっとそばにあった。
「……あんたは、私を壊そうとしてるわけじゃない」
《結果は、そうなるかもしれない》
白の空間が、静かに脈打つ。
「でも……それでも、あんたは」
言葉が詰まる。
胸の奥に溜まった感情が、出口を探している。
「……一人なんだ」
沈黙。
その沈黙は、否定ではなく、
深い肯定だった。
白の奥に、影が滲む。
形は曖昧で、輪郭も定まらない。
それでも、“そこに在る”と分かる存在。
《……名を、呼ぶな》
声は、低く、かすれていた。
「……どうして?」
《名は、世界に縛られる。
私は、縛られたくない》
アイラは、ゆっくりと首を振る。
「違う。
名は、呼ばれるためにあるんじゃない」
白が、わずかに揺れる。
空間そのものが、彼女の言葉を待っている。
「……失われないために、あるんだよ」
長い沈黙が、空間を満たす。
時間の感覚さえ、溶けていく。
やがて、影が小さく息を吐くように、言った。
《……好きにしろ》
アイラは、目を開けた。
「……ルク」
その瞬間、
白の空間に、初めて“重さ”が生まれた。
世界が、名を受け止めた。
影は、否定しなかった。
それが、答えだった。
次の瞬間、
白がゆっくりと薄れ、
感覚が、身体へと戻ってくる。
冷たい石の感触。
遠くの反響音。
重なり合う呼吸。
アイラの足元に、
小さな影が、確かに落ちていた。
彼女は、そっと微笑む。
「……おかえり、ルク」




