女神の手
光は、正しさの形をしている。
だが正しさは、いつも
誰かの影の上に立っている。
救われた者ほど、
その“代償”を見ようとしない。
これは、
女神と呼ばれる少女が、
それでも手を伸ばす理由の物語。
そして、
闇に触れてしまった者を、
それでも信じようとした夜の記録である。
崩壊都市を抜けた後の道は、妙に静かだった。
風はあるのに、草も木も揺れない。まるで世界が、呼吸を止めているみたいだ。
アイラは歩きながら、背中の刻印に意識を向けていた。
あの夜以来、熱は消えた。だが“無くなった”のではない。深く沈んで、次に目を覚ますのを待っている――そんな感覚がある。
肩の影が、気まぐれに揺れる。
《ねえ、後悔してる?》
「……分からない」
《正解。分からないまま、君は進む》
その声は皮肉なのに、どこか優しい。
前を歩くノエルの背中を見つめる。
半歩先にある距離が、昨夜よりも遠く感じた。
「……ノエル」
呼びかけた声は、風に溶けた。
彼は振り向かない。
イリスが歩調を落とし、アイラの隣に並ぶ。
「眠れた?」
「……少し」
本当は、ほとんど眠れていない。
目を閉じるたび、あの“空白”が蘇る。
イリスは空を見上げた。
「あなたの魔法……あれは、闇じゃない。少なくとも、私の知っている闇とは違う」
アイラは足を止めかける。
「……怖い?」
イリスは少し考え、正直に答えた。
「怖い。でも、あなたが怖いわけじゃない」
その言葉に、胸の奥がわずかにほどけた。
道の先で、ノエルが立ち止まる。
「……来る」
低い声だった。
森の奥から、影が滲み出すように現れる。
数は多くない。だが、その中に、昨夜と同じ“ずれた”気配が混じっている。
アイラの背中が、微かに熱を帯びた。
影が、静かに囁く。
《ほら。試されてる》
イリスは前へ出る。
「下がって。今度は、私が」
深く息を吸い、杖を構えた。
光が、彼女の周囲に集まり始める――。
イリスの足元に、淡く輝く魔法陣が広がった。
風が巻き、森の空気が一瞬で澄みきる。
アイラは、その光の中心に立つ彼女を見つめていた。
昨夜の自分と、重なる。
“選ぶ”ということの重さだけが、違っていた。
影が肩の上で息を呑む。
《……君とは、逆だね》
魔物たちが一斉に動いた。
黒い影が、地面を削りながら迫る。
イリスは目を閉じ、静かに詠唱を紡ぐ。
「応えよ、
天に満ちる白き息。
夜を照らし、
名もなき者を包み込んできた光よ。
砕けた祈りを集め、
失われた声を抱き、
ここに、
盾となれ。
傷を覆い、
涙を乾かし、
それでも
進む者たちを守れ。
いま、
希望は
ここに立つ――
《ラディアント・セラフィム》!」
その瞬間、光が“領域”となって広がった。
白と黄金の光翼が、イリスの背後に展開する。
足元の魔法陣が脈打ち、半球状の光の境界が、森を包み込んだ。
闇が触れた瞬間、押し返される。
だが、闇もまた“意志”を持つかのように、再び押し寄せる。
光と闇がぶつかり合い、空気が悲鳴を上げた。
ノエルが、歯を食いしばる。
「……これが、上位クラス……」
イリスの額から、汗が滴る。
腕は震え、それでも光は揺るがない。
「……完全に、消すための魔法じゃない」
彼女は息を整えながら言った。
「それでも……私は、止めることを選ぶ」
その言葉が、胸に刺さる。
影が、アイラに囁いた。
《ねえ。どっちが正しいと思う?》
「……分からない」
《なら、選ぶしかない》
イリスが、最後に一歩踏み出した。
光が大きく脈打ち、
圧縮された闇が、静かに砕け散る。
森に、静寂が戻った。
イリスは膝をつき、ノエルが駆け寄る。
彼女は微笑んだ。
「……まだ、手は伸ばせる」
アイラは、その姿を見つめる。
光の中に、確かな“意志”を見た。
肩の影が、かすかに笑った。
《君は、どんな世界を選ぶ?》
答えは、まだ出ない。
だが、二つの力が“対”であることだけは、はっきりと刻まれた。
夜の森で、
運命は、静かに交差していた。




