紋章の目覚め
世界は、いつも静かに壊れる。
音もなく、前触れもなく、
誰かの知らないところで“なかったこと”にされていく。
守られる側と、選ばれる側。
信じる者と、疑う者。
その境界は、思っているよりも脆い。
これは、
まだ何も知らない少女が、
“世界に選ばれてしまった”日の物語。
彼女が何を失い、
何を守るのか――
その答えは、まだ語られていない。
だが確かに、
この日を境に、
世界は元には戻らなくなる。
荒野の街道を、三人は歩いていた。乾いた風が砂を巻き上げ、遠くに崩れた城壁の影が見える。あれが崩壊都市。かつて人が生き、笑い、そして“なかったこと”にされた場所だ。
アイラは無意識に背中へ手を伸ばした。布越しに、皮膚の奥が熱を帯びている。鼓動のように、一定の間隔で脈打つ感覚。理由は分からないのに、ここへ近づくほど強くなる。
肩に乗る小さな影が、もぞりと動いた。
《近いね》
頭の内側に、皮肉な声が響く。
「……なにが」
《君の“過去”が》
言い方が、妙に癇に障る。アイラは視線を逸らした。
イリスが振り返り、微笑む。「疲れてない?」
「平気」
ノエルは何も言わず、ただ歩調を合わせる。彼の背中は、いつも半歩だけ前にある。その距離が、なぜか胸をざわつかせた。守られていると分かっているのに、同時に拒みたくなる感情。理由は思い出せない。
城壁に登ると、崩壊都市の全景が広がった。折れた塔、瓦礫に埋もれた通り。すべてが壊れているのに、妙に整っている。破壊の途中で時が止まったかのような、不自然な静けさだった。
背中の熱が、じわりと増す。
《ここは“なかったこと”にされた》
「……誰に」
《世界に》
イリスが目を閉じる。「魔力が……歪んでる。闇でも、光でもない」
ノエルは短く言った。「入るな」
だが、誰も引き返さなかった。危険だと分かっているのに、足が城門へ向かっていた。まるで何かに導かれているみたいに。
門をくぐると、空気が変わった。音が薄い。風も足音も、壁に吸われていく。壊れた看板、崩れた家、転がる瓦礫。その隙間に、木製の小さな馬の玩具が挟まっていた。
イリスが拾い、そっと元に戻す。「……ここにも、生活があったのね」
《優しいね》
「嫌味?」
《事実》
背中の熱が、街の中心へ導くように強まる。胸の奥に、言いようのない不安が広がった。
影が蠢き、魔物が現れた。歪んだ肢体、空洞の眼窩。
イリスが一歩前に出る。
「光よ、境となれ。我を守れ――《ルクス・シールド》」
白い光膜が広がり、魔物の突進を受け止める。
ノエルが無言で斬り込む。連携は完璧だった。だが最後の一体だけが“ずれて”いた。刃がすり抜け、光が触れた部分だけ削られる。
背中が灼ける。
《呼んでる》
「……やめろ」
《止められる?》
魔物が踏み出す。ノエルが前に立つ。その背中を、失うわけにはいかなかった。
ノエルの背中を見た瞬間、胸の奥が締めつけられた。
失う想像が、なぜか“現実だった記憶”のように迫ってくる。
言葉が、喉の奥に集まった。止めようとする意志より、溢れ出る衝動のほうが強い。
「集え、
境界に棄てられし影よ――」
ノエルが振り向く。
「やめろ、アイラ!」
イリスも叫ぶ。
「まだ早い! それは……!」
「我が声に応え、
我が血に宿り、
世界の狭間へと還れ……」
だが、声は届かない。
背中の刻印が、内側から燃え上がる。
「凝縮せよ。
重なれ。
崩れよ。
いま、
終焉はここに集う――
《シャドウ・バースト》」
黒紫の奔流が、地面から噴き上がった。
それは“光”でも“闇”でもない。
ただ、存在を削り取る“空白”の奔流だった。
魔物が、空間ごと“消えた”。
爆発は起きない。音もない。
あったはずのものが、なかったことになる。
まるで、世界のページを一枚破り捨てたように。
沈黙の中、風が戻った。
瓦礫が音を立てて転がり、崩壊都市は再び“現実”を思い出す。
アイラは、立っていることすら信じられなかった。
膝が震え、指先が冷たい。
それでも胸の奥には、奇妙な確信が残っていた。
――使える。
その感覚が、何より恐ろしい。
イリスは呆然とし、口を開いたまま動けない。
ノエルは剣を収めず、視線を逸らしている。
「……今のは、何?」
イリスの声は、かすれていた。
ノエルは答えない。ただ、ほんの少しだけ距離を取った。
その仕草が、言葉よりも重い。
肩の影が、小さく揺れる。
《ね。始まった》
「……なにが」
《君の物語》
その言葉に、否定は浮かばなかった。
遠くで雷が鳴った。
雲の奥で、何かが目を覚ましたような音だった。
アイラは、空を見上げる。
背中の刻印は、まだ熱を帯びている。
――私は、何を選んだ?
――私は、何になる?
答えは、まだない。
だが、確かに分かったことがある。
もう、元の場所には戻れない。
灰色の空の下で、
運命は確かに動き始めていた。




