番外編
秋の風が、王城の庭園を吹き抜けた。
色づき始めた木々の葉が、まるで金の粉を散らすように空に舞う。
王城の中庭――“王家の薔薇園”と呼ばれるこの場所は、季節の移ろいと共に姿を変える。けれどこの日ばかりは、庭師たちが整えた香り高い白薔薇が、一面に咲き誇っていた。
白は、純潔と婚姻の象徴。
つまり、今日は“お見合い”の日だ。
第一皇子アレクシス・フォン・クローヴァ――わずか五歳にして、すでに国中の注目を集める存在だった。
彼の頭上に光る、灰銀のツノ。
その異形こそが、彼が「神に選ばれし皇族」である証であり、同時に――「国を傾ける災厄の器」とも呼ばれていた。
幼いながらも、アレクシスは理解していた。
このツノを恐れず、自分に微笑む者は稀だということを。
だからこそ、彼は感情を隠し、完璧に表情を操作してみせた。
冷静に、穏やかに、優しくあれと。
そうすれば、誰も自分を恐れないから。
だが、六度目ともなれば、その笑顔も疲れを隠せなくなっていた。
――一人目、隣国ルシフェールの公爵令嬢。彼女はアレクシスのツノを見た瞬間、声もなく失神した。
――二人目、小国カーレンの王女。震える手で祝福の花を渡した後、二度と会おうとしなかった。
――三人目から五人目まで、皆同じ。優雅に微笑みながらも、その瞳には怯えが宿っていた。
六人目――それが今日の相手だった。
皇家派の伯爵家の娘、リンシェル。
年齢は、アレクシスと同じく五歳。
まだまだ幼いながらも、すでに礼儀作法を叩き込まれた令嬢として名を知られている。
「帝国の太陽、第一皇子殿下にご挨拶申し上げます」
その声は澄んでいて、驚くほどよく通った。
子どもの甲高さではなく、どこか落ち着いた音色を持っていた。
それが、アレクシスの耳にやさしく響く。
小さな少女は、淡いミルクティー色の髪をリボンで結び、深い森のような緑の瞳をまっすぐに向けていた。
――ツノを見ていない。
そう気づいた瞬間、アレクシスの胸の奥で、何かが小さく鳴った。
「……ああ、そんなに固くならず。もっと楽にしてください」
アレクシスは、教本どおりに微笑んだ。
しかしその微笑みは、ほんの少しだけ柔らかかった。
彼自身も気づかぬほどに。
「ありがとうございます、殿下」
ぺこりと頭を下げるその姿は、礼儀正しいというより、どこか軍人めいている。
立ち姿がまっすぐで、無駄がない。
けれど頬はふわりと丸く、幼子らしい愛らしさを残している。
――不思議な少女だ、とアレクシスは思った。
軽い会話が続く。庭園の花、最近の天気、学習の話。
そのどれもを、リンシェルは丁寧に、時に賢く答えた。
言葉の端々に幼さはあるが、同時に理性の光があった。
そして、アレクシスはついに尋ねてしまった。
「……あなたは、このツノをどう思われていますか?」
その問いに、少女は小さく目を見開いた。
そして――頭を深く下げた。
「……申し訳ありません。不勉強で、存じ上げません」
静まり返る庭園。
薔薇の香りが、ふっと遠のく。
アレクシスは少し驚いた。
これまでの誰もが、ツノを褒めた。
あるいは恐れを隠そうと、無理に笑って取り繕った。
だが、この少女は――“知らない”と。自身の評判が下がったとしても、アレクシスの心を案じてくれた。
「……顔を上げてください」
リンシェルがゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、恐怖の色がなかった。
ただ、誠実な光があった。
「君の正直な意見を聞きたい。……私は、この話がなくなっても、後にもたくさんご令嬢は控えているから」
アレクシスはわずかに肩をすくめた。
それは、半ば本音でもあった。
自分の婚姻など、王家の政治の一環にすぎない。
ツノを恐れない者が現れれば、それでいい。
次代が残せれば、それで。
ところが、リンシェルはふっと微笑んだ。
「……羨ましいと、思いますわ」
「羨ましい?」
「はい。次々と人と出会える殿下が。
わたしのような子には、なかなかそんな機会はありませんもの。
皇族としてのご苦労も多いでしょうが……それ以上に、出会いがあるということ自体が、羨ましいのです!」
そう言ってから、彼女はなぜか嬉しそうに続けた。
「それに、世の中には本当にかわいらしいご令嬢が多いのですよ。
仕草も声もお花のようで、見ているだけで幸せになります。
殿下も、そういう方と出会われたら、きっと笑顔になれるはずですわ!」
言葉に棘がない。
純粋に、心からそう思っているらしい。
アレクシスは、思わず目を瞬かせた。
この年で、自分を持ち上げず、むしろ他のご令嬢を勧めるような真似をする、対等に話せる少女がいるとは。
「……君は不思議な方だ」
「よく言われます」
少し照れたように笑うその姿に、アレクシスの胸の奥が少し温かくなった。
――この縁談も、きっと破談になる。
だが、それでいい。
そう思いかけたそのとき、リンシェルが小さく息を呑み、そっと手を伸ばした。
そして、アレクシスの頭――正確には、ツノの根元に触れた。
「……な、なぜ、触れたのですか!?」
思わず声を上げるアレクシス。
彼のツノに直接触れることは、最高位の不敬行為とされている。
護衛が剣を抜きかけた瞬間、リンシェルはにっこりと笑った。
「だって、寂しそうな顔をされていたから」
その瞬間――。
アレクシスの全身を、何か柔らかな光が包み込んだ。
ツノの表面が、微かに白く光る。
けれどそれは怒りや魔力暴走ではない。
胸の奥に、ぽたりと落ちた“安らぎ”の光。
“ああ、自分も……一人の人間として、触れてほしかったのだ”
その悟りが、幼い彼の中に落ちた。
初めて、世界がやさしく見えた。
その夜。
アレクシスは王と王妃の間に立ち、真剣な瞳で言った。
「父上、母上。……どうか、今日の縁談を、結んでください」
王妃は驚き、王は静かに笑った。
「我が子が、自分から望んだものなど、初めてだな」と。
それが、全ての始まりだった。
――それから十余年。
季節は巡り、今。
春の陽が降り注ぐ学院の大聖堂。
今日、リンシェルとアレクシスは卒業式を終え、そのまま婚儀を挙げる日を迎えていた。
鏡の前で、アレクシスは衣装の襟を整えながら、遠い記憶を辿る。
あの日、薔薇園で見上げた少女の瞳。
ツノに触れた、あの小さな手の温もり。
全てが、今も胸の奥で生きている。
「……殿下、どうされました?」
扉を開けて入ってきたリンシェルが、いつもの穏やかな声で問う。
彼女はラベンダー色のドレスを纏い、髪には小さな白薔薇が飾られていた。
あの頃の少女とは違う。けれど、瞳だけは変わらない。真っ直ぐで、まっすぐに“彼”を見ている。
「……昔のことを、思い出していたんだ。五歳のときの、お見合いの日のことを」
「ふふ、懐かしいですね。あの時の殿下、とても緊張していらっしゃいました」
「緊張というより……恐怖に近かったかもしれませんね。あなたに触れられて、初めて、救われた気がしました」
リンシェルは柔らかく笑う。そして――いつものように、彼のツノへそっと手を伸ばした。
「……よしよし、ですわ」
撫でられた瞬間、アレクシスのツノがほのかに光を帯びた。
春の光と混じり合い、まるで祝福のように輝く。
外からは鐘の音。
人々の歓声。
王国の空に、風が吹く。
――皇国の祝日。
ツノを持つ皇太子は、もう災厄の象徴ではない。
彼は愛を知り、手を差し伸べる者を得た。
そしてこれからも、愛する者と共に歩んでいくだろう。
アレクシスは微笑む。
「これからも、共にいてくれますか?」
リンシェルは頬を染めて、軽く頷いた。
「もちろんですわ、殿下。いえ――アレク様」
その呼び方に、アレクシスはほんの少し照れたように目を細める。
彼女の手を取り、唇を寄せた。
ツノがふたたび微光を放ち、世界がひときわ明るくなる。
春の風が、ふたりの髪を揺らした。
それはまるで、あの日、薔薇園で吹いた秋風の続きのようだった。
――これは、国を傾けるはずだったツノの皇子が、
ひとりの少女に“救われた”物語の、幸福な終章。
そして。
この先に続く物語は、まだ始まったばかりだ。
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