第3話
学院の春は、花と香と囁きで満ちている。
入学式から数週間。古い尖塔の影を縫うように、生徒たちの噂話が風に乗って流れた。
「聞きまして? 皇太子殿下のツノに触れるのを許された方は、未来の王妃! 将来を約束されるらしいですわ!」
「噂で聞いたのですが、実はリンシェル様とは不仲なんだとか……」
「そんなのありえませんわよ。見たことないんですの? この間皇太子殿下とリンシェル様が中庭で――」
廊下を歩いていたリンシェルは、思わず足を止めた。
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
……ツノに触れたら、将来が約束されるだなんて。
それは――アレクシスが、リンシェルだけに教えた秘密のはずだ。
学院の大理石の壁に映る自分の姿が、わずかに揺らいで見えた。
思い出すのは、幼い日の午後。婚約が正式に決まって、王城と実家を行き来していた日々でのこと。肩を並べて休憩している中、頭を撫でたとき、指先に感じたほのかな温もり。あの時も、銀のツノは淡く光っていた。なんでも、心を許した人に触れられると、魔力や心が安定するらしい。
あれ以来、アレクシスは時折「少しだけ」と言って、リンシェルの手をツノへと導いた。
まるで魔法の儀式のように。
それが、今では「噂」になっている。
しかも、誰かがそれを試そうとしているらしい――。
「……マリア様、でしょうね」
リンシェルの唇が自然と引き結ばれた。
廊下を通りすがった同級生の会話から、ヒロイン――マリアの名を聞いたのだ。
「あーうっかり! って感じでツノを触るの。頑張るわ!」と、軽い口調で話していたという。
アレクシスのツノに、他の誰かが――。
想像しただけで、胸がひりつくように痛む。
だが、それ以上に怖かったのは、アレクシスの中に眠る“魔王の力”だった。
下手に刺激すれば、世界そのものが軋む。
放っておけない。自分が、止めなければ――
◇◇◇
その日から、リンシェルはマリアの側にいた。
授業の準備も昼食も、帰り道も。マリアがアレクシスに接触する隙を与えないためだ。
けれど、マリアはにこにこと笑いながら、まったく警戒を解かなかった。
「リンシェル様って、ほんと世話焼きですよねぇ。原作にもそういう子いたなぁ」
「……げ、原作?」
「こっちの話!」
いつもと変わらぬ明るい声。その裏で、何かが少しずつ狂っていく気がした。
幾度目かの放課後。学院の裏庭、黄昏が降り始めた石畳の上。
マリアは手鏡で前髪を整えながら、ふっと笑った。
「ねぇリンシェル様。あたし、もう決めたの。アレク様に直接触れるわ。そうすれば、運命は“戻る”んだもの」
リンシェルの胸に、冷たいものが走った。
「殿下のツノは装飾ではありません。想い、そのものです。あなたの軽い気持ちで触れれば、――」
「でも、そうしないと“シナリオ”が……!」
その言葉を最後まで聞く前に、リンシェルの体が動いていた。
両手でマリアの肩を押し、背後の石壁へと追い詰める。
どん、と鈍く小さな音がした。
「いい加減に、しなさい!」
胸の奥から絞り出すような声だった。
「あなたが何を信じようと勝手ですが、殿下を巻き込むことだけは、許しません」
マリアの瞳が怯え、そして揺らいだ。
その瞬間――。
「……リンシェル?」
背後から、低く澄んだ声。
喉が、張り付く。
ゆっくりと振り返ると、殿下がそこに立っていた。
夕暮れの光に銀の髪が照らされ、紫水晶の瞳が冷ややかに光っている。
「で、んか……っ」
ああ、見られた。暴力を振るったと言われても言い逃れできない状況だ。
マリアは潤んだ瞳に涙をためて、アレクシスの方をじっと見ている。
対してリンシェルは、忙しなく呼吸を繰り返すのみ。
これがヒロインと悪役令嬢の差なのかもしれない。
リンシェルは諦めたように殿下の方を向き、カーテシーを行う。
貴族としての矜持だけは、奪われないように。
しかし彼が発した言葉は、この状況に似合わないものだった。
「……なぜ、最近この女にばかり構うのですか」
「え、っと……? 殿下、なにを……あの、誤解で――」
「誤解?」
言葉よりも早く、風が震えた。
アレクシスのツノが淡く光り、周囲の空気がひりつく。
「リンシェルは……私より、あの女といる方がよろしいのですか」
声は穏やかだった。だが、その奥に潜むものは怒りでも悲しみでもなく――嫉妬。
「もしそうなら……閉じ込めて、私しか見えないようにしなければ」
リンシェルの背筋を冷たいものが走る。
足元の花壇の花々が震え、葉が舞い上がる。魔力の波が、空間を歪めていた。
――まずい、このままでは、暴走する。
思考よりも先に、体が動いた。
リンシェルはアレクシスの前へ歩み寄り、その頬にそっと手を添える。
「殿下、落ち着いて……大丈夫です、ね?」
そして、迷いなく指先を伸ばした。
銀白のツノを、優しく――慈しむように撫でる。
瞬間。世界が光に包まれた。
あたたかい風が吹き抜け、光の粒が空に舞い上がる。
魔力が鎮まり、紫の瞳から険しさが消えていった。
呆然と立ち尽くすマリアが、悲鳴のように叫ぶ。
「そんな……そのイベントは、私のはずなのに……!」
光が静まり、アレクシスがゆっくりと膝をついた。
急いで抱き起こして顔を覗き込む。
魔力が暴走しかけて気持ちが昂ったからか、頬が赤く染まっている。体温が上がったのだろう。
しがみつくようにアレクシスがリンシェルにしなだれる。
しかし、そのまま微動だに動かず、ぎゅっとリンシェルの服を掴んで離さない様子に違和感を覚えた。
「殿下……?」
「腰が抜けてて……みないで、ください……っ」
その声は、かすれていて、どこか恥ずかしそうだった。
その姿が、あまりにも庇護欲をそそって、胸が締めつけられる。
誰にも見せたくないと思った。
「……失礼いたしますね」
リンシェルは風の魔法で、そっと体を抱き上げた。
驚くほど、温かい。
移動中不安にならないよう、アレクシスの額に、ツノにキスを贈り続ける。
夕闇の中、二人の影が寄り添いながら寮の方へと歩いていった。
その姿を見た者たちは、後にこう語る――まるで姫が王子を抱くようだった、と。
◇◇◇
教諭や生徒に指示を飛ばして後処理をしていたら、もうすっかり夜になってしまった。
侍女はもう遅いということで下がってもらった。冷めた紅茶を飲み干す。
部屋の灯を落とそうとしたとき、扉が控えめに叩かれた。
月に雲がかかり、地上に影を落とす。
「……私です」
「はい、すぐ向かいます」
春とはいえ少し肌寒く感じる。
ショールを羽織りながら扉を開くと、アレクシスが立っていた。
入浴を終えたのか、髪の先から雫が落ち、廊下に跡を作っている。
「殿下、お身体はよろしいのですか?」
「……」
視線が絡み合う。
その瞳は、とろけるような甘い危うさを孕んでいた。
「その、リンシェル。あなたがいなくなってから、熱が……身体の熱が、収まらないのです」
穏やかな声。しかし、目の奥は、マグマのような熱を帯びている。
「た、大変です。今すぐ医者を……っ」
「いいえ。私を救ってくださったのは、リンシェル、あなたです。もう、あなた以外の手では、私は私を保てません」
彼の言葉に、胸の奥がざわめく。
その瞳に映る自分の姿が、あまりに近い。




