第2話
ソプラニーノ学園の入学式にて。
春の光はまだ淡く、学院の尖塔の上を渡る風には冬の名残があった。
青白い空の下、入学式を迎えた生徒たちは、光沢を帯びた制服に身を包み、次々と大講堂へと吸い込まれていく。
入場の順は身分の序列によって定められており、婚約者を持つ者はペアで並ぶことになっていた。
その最後尾、最も視線を集める場所に、アレクシスとリンシェルの姿があった。
白を基調としたアレクシスの制服は、群青の差し色と銀糸の刺繍が見事に調和し、肩から垂れるマントの縁が陽光を反射して煌めいている。
その隣を歩くリンシェルは、落ち着いた深緑色のスカートが目を引く。
少女らしい華やぎよりも、理知的な気品を際立たせる意匠だった。
(……本当に、目を奪われる)
学院の正門から講堂へ続く回廊には、春の花々が生けられていた。
だが、その美しさでさえも、彼と並ぶ瞬間の眩さの前では霞んでしまう。
リンシェルは隣に立つアレクシスを盗み見る。
その横顔は穏やかで、しかし眼差しの奥には湖面のような静謐があった。
この人が“統治者”の顔を見せるのは、式典の時だけ。
そう理解していながらも、胸の奥で鼓動がひとつ跳ねた。
大講堂の扉が開かれると、無数の魔導灯がいっせいに灯り、天井のシャンデリアが金の光を散らした。
入場のたびにざわめきが走る。
だが、最後のペアが姿を現した瞬間、会場の空気が凍りつくように静まり返った。
アレクシス第一皇子――帝国の次代を担う皇太子、その存在感だけで場を支配していた。
指定された席まで着くと、リンシェルはその場で一礼し、視線を伏せる。
リンシェルを残して壇上に歩み出たアレクシスの姿を見上げると、光がその肩を縁取っていた。
「新入生を代表し、御挨拶申し上げます」
静寂を裂くように、低く美しい声が響く。
彼の声には、いつもの柔らかさではなく、国を背負う者の威厳が宿っていた。
言葉のひとつひとつが、聴く者の胸を打ち、空気そのものを引き締めていく。
リンシェルは息を潜めた。
同じ人物とは思えない。
いつも自分に見せる優しい笑顔の裏に、これほどまでの気高さが潜んでいたのか――。
……美しい。
この人がこのまま正しい道を歩めば、きっと帝国は安泰なのに。
胸の内でそう呟きながらも、彼女の指先は微かに震えていた。
その揺らぎに、自分自身が驚く。
――やがて挨拶が終わり、拍手が講堂に満ちる。
アレクシスはゆるやかに一礼し、リンシェルの隣の席へと戻った。
視線を交わすと、いつもの彼だった。
そして、学院長と生徒会長の長々しい訓話が始まる。
荘厳ではあるが、終わりの見えない話に、会場の空気は少しずつ緩んでいった。
リンシェルがそっと姿勢を正したその時――。
隣から、指先がかすかに触れた。
(……?)
殿下の手が、彼女の手の甲をなぞるように撫でた。
ひどく自然な仕草。
だが、指先が絡んだ瞬間、身体の奥から熱がせり上がる。
「……殿下、今は……」
「少し退屈ですね。式が長すぎます」
声は柔らかいが、瞳の奥にどこか艶めいた色が宿っている。
リンシェルが視線を逸らそうとしても、手は離してくれない。
むしろ、軽く親指で手のひらを撫でるように動かされ――。
「っ……!」
前世では、誰かにこんなふうに触れられたことなど、一度もなかった。
どちらかと言えば、守る側でいた。
一家の長女だったのもあるかもしれない。自分の身は自分で守っていた。でも、今は――。
「……ん? リンシェル、どうかしましたか?」
アレクシスが、すり、と大切そうに触るたび、どうしようもなく身体が火照る。
どうしたらいいの、こんなの……。
式が終わるまでの時間が、永遠のように長く感じられた。
◇◇◇
永遠とも感じた式が終わり外に出ると、春の日差しが眩しく、桜に似た花びらが舞っていた。
学院の門前には、新入生たちが友人を見つけて談笑している。
リンシェルはようやく落ち着きを取り戻しつつ、殿下と歩き出した。
「……殿下、先ほどのは、いささか大胆すぎではありませんか」
「リンシェルがかわいかったので、つい」
軽やかに言われ、リンシェルは顔を真っ赤にしたまま俯く。
その時――。
「……あのっ!」
澄んだ声が、門の前から響いた。
ひとりの少女が立ち尽くしていた。
風に揺れる金の髪、淡い水色のリボン。
まるで光に包まれたような存在。
マリア・フォンド子爵令嬢。
原作における、真のヒロイン。
リンシェルの背筋がわずかに強張る。
マリアの期待に満ちた眼差しが殿下に注がれる
……しかし、彼は一向にマリアを顧みる様子がない。
「殿下、呼ばれておりますよ……?」
促すように言うと、アレクシスは小さくため息をつき、ようやく振り返った。
その目には、明らかに興味の欠片もなかった。
「……用件を伺いましょうか、フォンド嬢」
「っ……あ、はい……!」
マリアの声が揺れる。
(原作では、ここで“運命の出会い”が始まるはずなのに……)
目の前の殿下は、冷ややかなまなざしで彼女を見下ろしている。
まるで他人事のように。
◆◆◆
その時。
マリアは動揺を隠せなかった。
――彼女もまた、転生者だった。
前世でこの乙女ゲームをやり込み、アレクシスルートの結末を熟知している。
推しを救うため、この世界に転生したのに。
なのに。
(おかしい……アレク様は、ここであたしに微笑むはずなのに)
マリアの心に、冷たい焦燥が走る。
アレクシスはリンシェルの肩へと視線を戻し、微かに口角を上げた。
「……私は、リンシェル以外に興味はありません。どうかご安心を」
そう言うと、アレクシスは静かに彼女の肩に頭を寄せた。
人前でのその仕草に、リンシェルは一瞬動きを止めた後、満更でもないように言う。
「で、殿下っ……!? 人が見ております……!」
「構いません。見せつけておきたいのです。誰にも、あなたを奪わせたくはない」
なにかが、おかしい。
だってそのポジションはあたしのモノのはずで。
それに、リンシェルは婚約者といえど、本来アレクシスに興味なんてないはず……。
(アレク様はなんで悪役令嬢に攻略されてるの? アレク様はあたしと結ばれないと、世界が滅んじゃうんだよ? ……もしかして、作品外で好感度を上げたの? チートでしょ。ズルじゃない!)
その証拠に、こうしてアレクシスは心底大切そうにリンシェルに触れる。
マリアの顔から血の気が引いた。
彼女の脳裏で、ゲームの筋書きが崩れていく。
「嘘……嘘よ、こんなの……!」
「フォンド嬢?」
アレクシスがちらりと視線を向けるが、その眼差しには一片の興味もない。
それが、マリアにとって何よりの絶望だった。
悪役令嬢はこちらを気遣うように、震える声で言った。
「殿下……彼女は悪意があるわけではありませんわ。お話を……」
「……わかりました。リンシェルがそう言うなら、次があれば機会を設けましょう」
そう言ってアレクシスは微笑み、リンシェルの腰をそっと抱く。
その仕草に周囲の視線が集まる中、彼は一言だけ囁いた。
「――それで、他にお話とは?」
その声は穏やかだったが、底に潜むのは静かな執着。
もう会話を切り上げて、リンシェルと話したい。察しろ、とでもいった雰囲気。
マリアは拳を握りしめ、その場を後にする。
寮に帰ってから、泣いた。
あたしこそが、この物語のヒロインのはずなのに。
アレクシスを救えるのは、マリアだけなのに。
花びらが舞う中、三人の運命は音もなくずれ始める。
その歪みが、やがて取り返しのつかない破綻へと繋がるとも知らずに。




