第6話「境界に咲く花」
朝の光が、やけに柔らかかった。
会社の窓から見える街は、昨日までよりも静かに見えた。
騒がしい広告も、車の音も、全部一枚の膜の向こうにあるような――そんな透明さだった。
俺はデスクに座り、コーヒーを口に含む。
味が、少し違う。苦味が薄い。
もしかすると、俺の舌が何かを“忘れた”のかもしれない。
昨日、黒い花を閉じたとき――俺は自分の記憶の一部を焼いた。
それがどんな記憶だったか、今はもうわからない。
けれど、胸の奥に“誰かを守りたい”という熱だけは残っていた。
その熱が、心臓の拍動と同じリズムでまだ鳴っている。
白崎は隣の席に座り、ノートPCを開いていた。
普段と変わらない姿。
けれど、よく見ると彼女の左手の指に、白い包帯が巻かれていた。
昨日の“代償”の跡だ。
俺が記憶を焼いた分、彼女は血を流した。
どちらも、扉を閉じるために必要な痛みだった。
「おはようございます、高城さん」
「おはよう。……体調はどうだ?」
「平気です。――あなたは?」
「少し、眠りが浅いな」
俺がそう答えると、白崎はふっと微笑んだ。
「夢の中で、まだ“境界”を歩いているのかもしれませんね」
「境界?」
「ええ。白と黒のあいだ。現と虚のあいだ。
私たち帰還者が最後に立つ場所」
白崎の瞳が、ふっと遠くを見る。
その目の奥に、一瞬だけ光が揺れた。
白でも赤でも黒でもない――透明な光。
まるで、朝日が氷を透かすような冷たく静かな輝き。
「昨日の“黒い花”を閉じたあと、少しだけ見えたんです」
「見えた?」
「境界の向こうに――まだ“誰か”がいました」
「……女神か?」
「たぶん、違います。
女神は“創る者”ですが、あれは“繋ぐ者”のように見えました」
彼女の言葉に、胸の箱が微かに震えた。
記憶の奥に、かすかな声が響く。
――“お前の剣は、言葉になる”
誰の声だったか、思い出せない。
けれど、その言葉のあとに白い光があった気がした。
「白崎」
「はい」
「もし、その“境界”がまだ開いてるなら、俺たちは行くべきだ」
「……覚悟はありますか?」
「ない。でも、約束したからな。
閉じ忘れた扉は、定時のうちに閉めるって」
白崎が笑った。
その笑顔は、昨日までの緊張の欠片もなく、ただ穏やかだった。
「なら、行きましょう。――昼休みに、屋上で」
昼。
太陽は高く、空気は澄んでいた。
屋上の白い花は、もう枯れかけていた。
けれど、花弁の根元から、新しい蕾がひとつ、芽を出していた。
透明な花弁。
触れると冷たいのに、指先に柔らかい熱を残す。
「これが、“境界の花”」
白崎の声が小さく響いた。
「これは誰の花だ?」
「あなたと、私。二人で閉じた世界が、ひとつの花を咲かせたんです」
彼女が掌を花の上にかざすと、風が集まる。
花弁がふわりと開き、光が溢れた。
その光の中で、遠い声がした。
――ありがとう。
懐かしい声。
女神でも、仲間でもない。
“異世界で戦っていた自分”の声だ。
白崎が俺を見た。
「この花が咲くとき、帰還者の“心”はようやく定位置に戻るそうです。
異世界に残った自分と、こちらで生きる自分が、同じ場所に並ぶ」
「……融合、ってことか?」
「いいえ。“共存”です」
風が吹いた。
花の中の光が、ゆっくりと空に溶けていく。
胸の箱の熱も、静かに冷めていく。
けれど、それは空虚ではなかった。
むしろ、“満たされていく”感覚に近かった。
「これで本当に終わりだな」
俺がそう言うと、白崎は首を横に振った。
「終わりじゃありません。
――始まりです。
私たちは“向こう”を知って、“こちら”を選んだ。
これからは、生きるだけです」
彼女の言葉に頷いた。
空を見上げると、雲の隙間に透明な花弁の残光が浮かんでいる。
それはまるで、世界の境界線そのものが光っているようだった。
「白崎」
「はい」
「ありがとう。俺、たぶん――もう大丈夫だ」
「……ええ。私も」
二人で屋上をあとにしたとき、
風が背中を押した。
まるで誰かが「行け」と言っているように。
その風の中で、俺は確かに聞いた。
――“おかえり”
振り返ると、白い花がひとつ、静かに揺れていた。
【完】
白は帰還者、赤は呼び戻す者、黒は記憶の終焉、
そして透明は“選択”――生きるための境界の花。
彼らの物語はここで終わるが、
世界のどこかで、また誰かの胸の奥に、小さな花が芽吹いている。




