第5話「黒い花の夜」
夜の街が、異様に静かだった。
信号の音も、車のエンジンも、遠くの人声も――
すべてがどこか“間延び”して聞こえる。
世界がゆっくりと呼吸を忘れかけているようだった。
白崎と俺は、地図の指す場所――駅前の地下通路へ向かっていた。
昼間は人で溢れるその場所も、夜はまるで別世界のように閑散としている。
空気が重く、湿っている。
地面のタイルに残る雨の反射が、まるで別の世界の光景を写していた。
「この匂い……」
白崎が小さく息を呑む。
「焦げた魔石の匂いだ。赤い花を閉じたときより濃い」
「黒は、“記憶そのもの”を焼く花です。
閉じようとすれば、過去が燃える。……私たちがいた“向こう”の記録も」
俺たちは、階段を下りた。
足音が反響して、まるで三人、いや四人目の足音が重なって聞こえる。
通路の奥、照明が一つだけ点滅していた。
その足元――黒い染みが、円を描いて広がっている。
「これが……」
白崎は言葉を途切らせ、手を伸ばした。
その瞬間、黒い染みが呼吸するように波打つ。
光を吸い込み、形を変えながら、
ゆっくりと“花の姿”をとり始めた。
八枚の花弁。
まるで闇そのものが花の形を取ったかのように、黒い。
中央には、誰かの影があった。
「……佐伯」
俺は声を絞り出す。
佐伯が、黒い花の中に立っていた。
瞳は虚ろで、足元から黒い靄が立ち上る。
「閉めたはずだ……なぜここに」
「閉めたのは“扉”。でも、“記憶”までは閉めきれなかった。
彼の中の何かが――呼び返されたんです」
白崎が歯を食いしばる。
「黒い花は、帰還者の“核心”を食べる。
閉じるには、あなたが“剣”だった記憶を……差し出すしかない」
胸の奥で、何かがざらついた。
あの日の戦場の景色。
仲間たちの叫び。
女神の声。
剣を掲げた最後の瞬間。
――それを失えば、俺はただの人間になる。
けれど、それで誰かが救えるなら。
「白崎、俺がやる」
「駄目です。それは――あなたの心そのものです」
「心がなくても、生きてはいける。でも、“誰か”がいない世界では、生きられない」
俺は黒い花の前に立ち、右手を差し出した。
花弁がゆっくりと開き、中心から淡い光が漏れる。
それは闇の中の光ではなく、“記憶”の色だった。
無数の映像が流れ込んでくる。
戦場の風、剣の重み、仲間の笑い声――すべてが目の前を通り過ぎていく。
「……高城さん!」
白崎の声が遠くなる。
“たたむ”という言葉が頭の中で響いた。
たたむ、たたむ、たたむ。
記憶を折り重ね、心の奥にしまい込む。
最後に残ったのは、ただひとつの感情。
――守りたい。
それだけを胸に残して、俺は光を手放した。
黒い花が震え、音もなく崩れ落ちる。
花弁が粉になって消え、闇の色が淡くなっていく。
通路の照明が一斉に点き、世界が色を取り戻した。
佐伯は、膝をついていた。
顔を上げると、涙の跡が頬に光っていた。
「……俺、夢を見てたんです。
でも、もう……帰ってきたんですね」
俺は頷く。
それだけの言葉しか出なかった。
白崎がゆっくり近づき、俺の腕を取った。
その手の温度で、自分の体がまだここにあると知る。
「あなたの記憶の一部は、花と一緒に燃えました。
でも……全部じゃない。
“守る”という意志だけは、燃え残った」
通路の端で、風が通り抜けた。
もう異世界の匂いはしない。
残ったのは、コンクリートの冷たさと、少しの安堵。
「これで、全部終わりか」
俺の問いに、白崎は小さく首を横に振った。
「扉は閉じました。でも――まだ“境界”がひとつ残ってる」
「どこに?」
「あなたの中。……そして、私の中にも」
彼女の瞳の奥に、淡い光が揺れていた。
それは白でも赤でも黒でもない、透明な光。
――“まだ名前のない花”の色だった。
次回・第6話「境界に咲く花」
世界の裂け目は消えた。しかし、帰還者の心に残る“もう一つの扉”が、静かに開き始める。
白崎の過去、高城の失われた記憶、そして“女神”の真の正体が、少しずつ繋がっていく。




