第4話「赤い花のメール」
午後四時を回ったころ、オフィスの窓際に光が滲み始めた。
雨上がりの空気はやけに透明で、窓の外の雲が薄く赤みを帯びている。
夕焼けの色ではなかった。血に近い赤。
モニターの照り返しで、デスクの上の封筒が淡く染まっていた。
スマホの画面には、まだ未読のままの通知。
《扉を閉じたら、誰が開ける?》
添付の赤い花――花弁の縁が滲み、まるで誰かの指先で押し潰されたように歪んでいる。
白崎はデスクの向かいで資料を束ねながら、視線だけをこちらに寄こした。
「見ました?」
「見た。……何だと思う?」
「“開ける側”の存在を示唆しています。つまり、向こうから扉をこじ開けようとする誰か」
「それが“赤い花”の印、か」
「はい。帰還者ではありません。“呼び戻す者”です」
印刷機が静かに紙を吐き出す音の向こうで、時計の針がひとつ動いた。
世界が、すこしだけ軋むように聞こえる。
異世界の気配は、もう感じない――はずなのに、胸の箱が熱を帯び始めていた。
この熱は、まだ“残っている何か”の証。
「白崎」
俺は声を低くした。
「もし“赤い花”が現実に咲いているなら、場所の特定は?」
「できます。白い花と同じ、風の歪みを感じます。
ただ、まだ弱い。……恐らく、発芽段階です」
「発芽?」
「ええ。放っておけば、次は“誰かの中”に咲く」
その言葉に、思わず視線が周囲を巡る。
フロアにはいつもの日常――キーボードを叩く音、会話、コピー機のうなり。
だが、その中に“音が一拍遅れて届く人間”がいるように感じた。
リズムのずれ。
それは、昨日の佐伯と同じ兆候だ。
「誰かがもう、触れてるのかもしれない」
「はい。――それに、今度は、閉じるだけでは済まない」
「開けた者を止める?」
「いえ、“選ばれた側”を守る。
赤い花は、呼びかけと同時に“依代”を作ります。完全に根付く前に見つけないと」
白崎の声は穏やかだが、言葉の奥に焦りが混じっていた。
彼女の手元では、ノートの端に細かい魔法陣が描かれていく。
符号が淡く光り、まるで印刷機の音に呼応するように震える。
それは新しい術式――“探知”。
そのとき、通路の向こうで軽い悲鳴が上がった。
振り返ると、経理の森下がコピー用紙を抱えたまま立ち尽くしている。
腕に切り傷。
白い紙に、一筋の赤。
その血が落ちた床に、まるで滲むように、花弁のような模様が広がっていた。
赤い花。
いや、まだ“影”の段階だ。
けれど、そこに確かに咲き始めていた。
「白崎!」
「感じます……強いです!」
彼女はペンを置き、ポケットから便箋を取り出した。
白い花の印の裏側に、赤い印を重ねて描く。
それが“対消滅”の術式――光と影の調停。
「俺が“忘れる”側だな?」
「はい。視るのは、私。……ただし、今回は痛みます」
白崎の声が、少しだけ震えた。
俺は頷き、森下の肩を押さえる。
彼女の瞳は空を映しているように虚ろで、口元がかすかに動いていた。
「こっちに、きれいな花が……」
その一言と同時に、床の赤が脈打つように広がる。
世界が歪む。
空気が波打ち、音が遠のく。
白崎の術式が起動する瞬間、周囲の蛍光灯が一斉に明滅した。
彼女の指先が宙を切り、赤と白の線が交差する。
その中心に、俺の胸の熱が吸い込まれていく。
「たたむ、たたむ、たたむ――」
耳の奥で、焼けた鉄の音がした。
痛みが、胸から腕へ、指先へ。
“忘れる”という行為が、まるで体の中で火をつけるようだった。
赤い影が、白い光に包まれて、音もなく散る。
森下の体がぐらりと揺れた。
支えた腕の中に、確かな温度と鼓動。
呼吸が戻る。
視線が焦点を取り戻す。
赤い花は、消えた。
静寂が、オフィスを包んだ。
蛍光灯の明かりが戻る。
だが、白崎の顔色が蒼白だった。
「白崎!」
「……大丈夫。少し、持っていかれただけ」
言葉と同時に、彼女の手首から一筋の赤が流れる。
それを見た瞬間、胸の奥の箱が熱く脈打った。
“閉じる”側が、代償を払ったのだ。
「この花……まだ終わってません」
白崎の声が掠れる。
「次に咲く場所が、わかります。
――地下通路の“向こう側”です」
その瞬間、スマホが再び震えた。
画面には、たった一行。
《赤い花は、扉を開けたがっている》
そして添付された地図には、もう一つの印。
“白”でも“赤”でもない――
“黒”の花。
白崎は唇を噛みしめ、俺を見た。
「黒は……終焉の印です。閉じることも、忘れることもできない」
俺は深呼吸し、ポケットの中の封筒を握りしめた。
胸の箱の熱が、静かに燃える。
「行こう」
白崎が頷く。
夕焼けは完全に赤に変わり、窓の外で風が巻いた。
異世界の残り火が、再びこちらへ吹き込もうとしている。
次回・第5話「黒い花の夜」
“白”は帰還者、“赤”は呼び戻す者。
では、“黒”は――世界そのものの記憶か。
かつて閉じたはずの扉が、今度こそ音を立てて軋み始める。




