第3話「二階の踊り場」
午前七時。
雨上がりの空気は湿って重く、アスファルトの匂いがまだ街の底に残っていた。
会社の玄関をくぐる前に、一度だけ深呼吸をする。
胸の奥に仕舞った“箱”が、雨の匂いに少しだけ温まる。
白崎からのメッセージは、昨夜のままだ。
《明朝、二階の踊り場。ひとりで来ないで》
添付の花の写真は、夜の光を反射して淡く光っていた。
出勤カードを通して、エレベーターの前で白崎を待つ。
スーツの袖口を直している彼女の手が、ほんの少し震えていた。
「眠れませんでしたか」
「ええ、少し。夢の中で、何度も階段を上り下りしてた」
「向こうの癖が、まだ残ってるんですね」
白崎は微笑んで、髪を耳にかける。その仕草に、光が触れた。
魔力の脈が、昨日よりも明るく見える。
エレベーターが開く。
ドアが閉じた瞬間、彼女はささやくように言った。
「……この階段の“下”に、誰かがいる気がするんです」
「感じるんですか」
「ええ。けれど、それが“誰”かは、まだ見えない」
電子音が鳴り、二階で扉が開く。
薄暗い踊り場に、朝の光が細く差し込んでいる。
壁の隅――雨水の跡に沿うように、白い花の影が浮かんでいた。
昨日閉じた扉と似ているが、どこか歪んでいる。
白崎が術式の線を描こうとした、その瞬間だった。
階段の下から、足音。
ゆっくりと、一段ずつ。
靴音が、コンクリートの響きとずれている。
「高城さん……」
白崎の声が、張り詰めた糸みたいに細くなる。
階段の影から現れたのは、佐伯だった。
昨日と同じスーツ、同じ表情――のはずなのに、目の焦点が合っていない。
呼吸が、少し遅れている。
「……おはようございます」
口調は普段どおりだが、声の奥に“空洞”があった。
白崎が一歩踏み出そうとする。
俺は腕で制した。
「佐伯。調子はどうだ?」
「はい。……いいですよ。少し、夢を見ていました」
「どんな夢だ」
「風の中で……呼ばれたんです。
“戻っておいで”って。
でも、階段を上るほどに、声が遠くなる」
白崎が小さく首を振る。
〈帰還者〉の中で、あちらへ“引かれ始めた”者の兆候だ。
「佐伯。お前の胸の中に、何か“箱”があると思え」
「箱、ですか?」
「そこに、夢をしまってみてくれ。
それを開けるのは、今じゃない」
佐伯は少しの間、目を閉じる。
指先が、胸元に触れる。
しかし、動きが止まる。
「……見えません。
箱じゃなくて、穴です」
その瞬間、踊り場の光が、ひときわ強く揺らめいた。
白い花の影が、壁から剥がれ、空気の中に浮かび上がる。
その中心――穴のような影が、佐伯の足元から広がっていく。
「下がって!」
白崎が叫ぶより早く、俺は腕を伸ばし、佐伯の肩を掴んだ。
冷たい。
生きているはずの温度じゃない。
影の縁から、風が吹き上がる。異世界の匂いだ。
血と鉄と、焼けた魔石の匂い。
「戻れ! ここはもう、あっちじゃない!」
叫びながら、〈風纏い〉を全開にする。
風の膜が、影の穴を押し返す。
だが、押すたびに、向こう側から“誰かの声”が返ってくる。
無数の声。男も女も、年齢もわからない。
“まだだ”“終わっていない”“こちらに来い”
佐伯の目が、その声に引かれるように開く。
白崎が術式を描き始めた。
昨日までの小さな枠とは違う。
文字が次々に繋がり、階段の空気が金色に染まる。
「高城さん、手を!」
彼女が叫ぶ。
俺は、佐伯の手を掴んだまま、その枠の中心に足を踏み入れる。
「たたむ、たたむ、たたむ!」
白崎の声が、響き渡る。
胸の奥の箱が熱くなる。
忘れるための熱が、今は記憶を燃やしている。
影の穴が小さくなり、風が収まる。
やがて、光の枠が音もなく弾けて消えた。
階段には、三人分の足跡だけが残っていた。
佐伯は、俺の腕の中で静かに息をしている。
瞳の焦点は戻り、体温も少しずつ上がっていく。
「……すみません。俺、また寝落ちして……」
白崎と俺は顔を見合わせた。
彼の意識は“こちら”に戻ってきていた。
「大丈夫。お前、帰ってきた」
「帰って、きた?」
「そうだ。定時のうちに、な」
白崎が苦笑する。
「高城さん、いいセリフですね」
「仕事の癖です」
階段を上がる途中、ふと振り返ると、壁の染みが白く乾いていた。
花の影はもうない。
ただの踊り場。
けれど、そこに立っていた時間だけが、まだ少し暖かい。
会社の廊下に戻ると、昼のざわめきが広がってくる。
日常の音が、ようやく世界を満たしていく。
白崎が、そっと言った。
「これで“扉”は三つとも閉まりましたね」
「いや」
俺は首を振る。
「まだ、ひとつだけ開いてる」
「どこに?」
「俺たちの中だ」
白崎は一瞬だけ目を伏せ、それから頷いた。
「なら、閉める順番を考えましょう。焦らずに」
彼女の言葉の後ろで、遠くから電話のベルが鳴った。
その音が、やけに長く続いて聞こえた。
俺のスマホが震える。
画面には、新しい通知。
《扉を閉じたら、誰が開ける?》
送り主は、やはり名なし。
ただ、添付の花の写真は、
――赤かった。
次回・第4話「赤い花のメール」
「白い花」が“帰還者の印”なら、“赤い花”は――何を意味するのか。
平穏を取り戻したオフィスに、再び歪みが忍び寄る。




