第2話「白い花の下で」
翌日の昼休み、エレベーターで屋上階のボタンを押すと、表示が一度だけ瞬いて「止まります」の機械音声が遅れて流れた。
鏡張りの壁に映るネクタイは、朝よりも少し曲がっている。
ポケットの中の封筒は薄いのに、やけに重かった。
屋上の扉は、非常用の赤いバーで押し開けるタイプだ。
熱気と風のにおいが混じった空気が、頬にまとわりつく。
視界の端に、白い花――夾竹桃が、コンクリートの鉢から風に揺れていた。
昨日、公園で見たのと同じ白。
「来てくれましたね」
手すりの陰から、白崎が現れた。
昼休みだからか、白いブラウスの袖を肘まで折っている。
いつもの“総務の顔”よりも、少しくだけた表情だった。
「その封筒、開けました?」
「まだだ。……開けるのが、少し怖くて」
「正しい反応です」
微笑んだ彼女の目が、ほんのわずかに光を返す。
魔力の脈。昨日、見間違いじゃなかった。
「先に確認させてください」
白崎は夾竹桃の前で立ち止まり、声の調子を落とした。
「“向こう”で、あなたは何と呼ばれていましたか」
「……勇者、あるいは“剣”」
「ならば合言葉は、“鞘はどこ”」
「胸の真ん中。抜き身はもう、しまった」
白崎が小さく頷く。
「帰還者同士の確認です。人間のふりをした“別のもの”が紛れ込むことがあるので」
胸の内側で、張り詰めていた糸が一本、音を立てた。
帰還者。
やはり、俺は独りではなかった。
「封筒を、どうぞ」
封を切ると、便箋に丁寧な文字が並んでいた。
冒頭には、いくつかの“注意”。
一、前でなく、足元を見ること
二、思い出しすぎないこと
三、扉をひとつずつ閉めていくこと
便箋の裏に、簡単な地図と、白い花の印が点在している。
社屋の屋上、公園の角、駅前の地下通路の踊り場、そして……この会社の非常階段の踊り場にも、ひとつ。
「白い花は、帰還者が“ここで話していい”と決めた場所の印です」
白崎は指先で、鉢植えの影を指した。
光の角度で生まれた影の形が、たしかに小さな花弁に似ている。
「でも、本当は“扉の名残”でもある」
「扉の名残?」
「あなたがこちらに戻るとき、どこかで“境目”を通ったはずです。あれは完全には閉じません。わずかに、風が抜ける」
風。
俺は無意識に〈風纏い〉を弱く展開した。
白い花の前の空気が、ほんの少しだけ薄くなる。
世界の布地に、針の穴があいたみたいな感覚。
「感じますか」
「ああ。……冷たい“隙間”だ」
「そこから、向こうのものが覗き込む。あるいは、こちらの心が覗かれる」
白崎は言葉を選ぶように、緩く息を吐いた。
「だから、“閉め忘れた扉”は、ひとつずつ閉めなきゃいけない」
便箋には、さらに続きがあった。
“扉”を閉じるための、簡易の術式と、そのための条件。
条件の欄に、さらりと一行――「二人であること」とあった。
「一人じゃ、閉められない」
「はい。片方が“視る”役、片方が“忘れる”役」
「忘れる?」
「全部を抱えていると、こちらの世界が割れます。思い出すことは大事ですが、忘れることも同じくらい大事です」
ふと、職場のガントチャートが頭をかすめる。
“誰が何を持ち、どこで手放すか”。
戦場が変わっても、原理は変わらないのかもしれない。
「あなた、昨日の会議で“前提を揃えたい”って言ったでしょう」
白崎が笑う。「帰還者は、話の順番が上手になります。向こうで散々、順番を間違えると死ぬので」
「身に覚えがありすぎる」
風が少し強くなり、夾竹桃の葉が擦れ合う音が増える。
屋上の隅では、空調の室外機が唸り続けていた。
俺たちは鉢植えの白い影の内側――“話していい場所”に立っている。
「始めましょう」
白崎は、便箋に記された術式を、指先でなぞるように空気へ描いた。
薄い線が、陽炎みたいにきらめいて、空中に留まる。
魔法陣というほど仰々しくはない。ただ、二人分の呼吸を合わせるための“枠”だ。
「私が視ます。高城さんは、忘れる方を」
「忘れる、のは苦手だ」
「大丈夫。ここで忘れるのは、捨てることじゃない。たたんで、引き出しに入れるだけです」
俺は頷き、目を閉じた。
白崎の声が、近くなったり遠くなったりする。
風の縁に触れる感覚。
“向こう”の森の匂いが、一瞬だけ混じった気がした。
金属の擦れる音。
剣の重さ。
仲間の笑い声と、最後の夜の焚き火。
胸の内側が焼ける。
忘れたくない。
でも、覚えていると、ここで息ができない。
「たたむ、たたむ、たたむ」
白崎の声が、折り紙の手順みたいに一定のリズムで続く。
「片方の手で持ち上げて、片方の手で、そっとしまう。――はい、今」
呼吸が落ちた。
胸の熱は、消えないまま、形だけが変わる。
小さな箱に入れて、胸骨の裏に置いた。
そこから、ほんのり、温かい熱だけが漏れる。
「閉じます」
風が、一度止まった。
瞬間、世界の“合わせ目”が、ぴたりと合う音がした気がした。
耳鳴りがして、すぐに消えた。
白い花の影が、さっきより濃い。
「……やりましたね」
白崎が目元を和らげる。
「初回にしては、とてもきれい」
「ありがとう。……君は、いつからこれを?」
「こちらに戻ってすぐです。最初は、眠れませんでした。寝ると、向こうの朝が来る気がして」
白崎は一瞬だけ視線を落とした。
「でも、ここで働くことにしました。紙の城壁を抜けるのは得意なので」
佐伯の言った“書類の城壁”が、ここに繋がる。
笑いそうになって、それを飲み込む。
笑いと同じだけ、胸の奥で、切なさが揺れた。
「扉は、いくつあります?」
「あなたのは、三つ」
迷いなく返ってきた答えに、喉が鳴る。
「ひとつは、社屋の非常階段。もうひとつは、公園の白いベンチ。最後は――駅前の地下通路。列車の風が、いつも逆向きに吹いている場所です」
地下通路。
朝、通勤の人波のなかで一瞬だけ感じた、空気の層のズレ。
たしかに、あそこに“境目”があったのか。
「仕事の後、見に行きませんか」
白崎の提案に、頷く。
昼休みの終わりを告げるチャイムが遠くで鳴った。
俺たちは、約束のように視線を合わせる。
「定時で」
「定時で」
午後の仕事は、不思議なほど整って進んだ。
集中は、焦りではなく、箱にしまった熱から借りてくる。
バグの直しは二件、レビューは一件、追加の調整は一件。
チャットには「助かります」「早い」の短い言葉。
上司の「明日の午前、時間取れる?」に「取れます」と返す。
画面の端に映る自分の顔が、朝よりも少しだけ生き返って見えた。
定時。
俺と白崎は、ほとんど同時に席を立った。
佐伯が「いってらっしゃいませ」と茶化す。
白崎が軽く手を振り、俺は苦笑で返す。
会社の自動ドアが開くより早く、〈開錠〉の気配が先にセンサーを押し広げた。
夕方の街は、昨日と同じ色で、昨日よりも少しだけやわらかい。
最初の扉は、社屋の非常階段だった。
階段の踊り場――二階と三階の間。
そこだけ、空気の温度が違う。
壁のコンクリートに、肉眼では見えない“ひび”が一本だけ走っている。
白崎が術式の枠を描き、俺が呼吸を合わせる。
“視る”役は彼女、“忘れる”役は俺。
たたむ、たたむ、たたむ。
ひびが消える。
階段を吹き抜ける風が、普通の風に戻った。
二つ目は、公園の白いベンチ。
そこでは、懐かしい匂いが強すぎて、思わず涙腺が熱くなった。
たたみ方が、少し難しかった。
白崎が肩に手を置く。
触れた指先が、熱を分け合うみたいに落ち着きをくれた。
扉が閉じると、ベンチの白は、ただの白に戻った。
三つ目は、駅前の地下通路。
風の流れが逆向きで、ネオンの光が微妙に遅れて揺れる場所。
人波の途切れる合間を縫って、白い花の影に入る。
術式の枠を描く――その瞬間だった。
耳の奥で、金属が擦れる音がした。
視界の端に、光る縁――剣の鍔のような残像。
白崎が、息を飲む音。
“向こう”から、誰かが覗いている。
誰か、というより、“誰かの形をした”何か。
扉の隙間に押し付けられた顔は、人間の顔をよく真似ていたが、目だけが遅れて瞬いた。
「閉めます」
白崎の声が低く、はっきりした。
俺は一度、目をつぶり、胸の箱に熱をしまう。
忘れる、忘れる、忘れる。
枠の線が強くなり、隙間の縁が焼けて、香ばしい匂いがした。
顔の形は紙の仮面みたいに薄くなり、やがて、空気に溶けた。
風が、正しい向きで吹き抜ける。
静かになった地下通路で、俺たちはしばらく立ち尽くした。
人がまた流れはじめ、駅員のアナウンスが上から降ってくる。
白崎は小さく頷いた。
「これで、今日の分はおしまい」
「助かった」
「お互いさまです。二人じゃないと、閉められないので」
階段を上がる途中、白崎がふと立ち止まった。
「……言いにくいのですが」
「何だ」
「“戻れなかった帰還者”がいるんです」
足が止まる。
「戻れなかった、というのは」
「肉体はこちらにある。心の大半は、あちらに置いてきたまま。扉を閉めないでいると、少しずつ削れて、空っぽになっていく。――“抜け殻”になってしまう」
白崎は自分の手首に触れ、脈を確かめるみたいにゆっくり言った。
「昨日、あなたの部署のフロアで、似た脈を感じました」
「俺の部署?」
「ええ。誰かの眼差しが、少し、遅れている」
頭に、佐伯の顔がよぎる。
朝の軽口と、紙粉を指先で払ったときの、あの一瞬。
彼の視線はいつもまっすぐだ。けれど、昨日は、どこか少しだけ置き去りの色が混じっていた気がした。
胸の箱の蓋が、わずかに軋む。
しまった熱が、じわりと滲む。
「見極めましょう」
白崎はそう言って、笑った。
「焦らずに。順番を間違えないで」
俺は頷く。
戦いの順番。救う順番。閉める順番。
“前提を揃える”。
会議室でも、世界の継ぎ目でも、やることは変わらない。
地上に出ると、夕立の匂いがした。
雲の縁が黒ずんで、いまにも降り出しそうだ。
白い花の名残は、どこにも見えないのに、視界のどこかで、白がいつもより鮮明に見える。
世界が少しずつ、こちらにピントを合わせ直している。
「高城さん」
白崎が、信号待ちの横で、少しだけ真面目な顔をする。
「“鞘”の位置、忘れないでください」
「胸の真ん中」
「はい。――それと、明日の昼、五分だけ時間をください。総務にある“名簿”を見せます」
「名簿?」
「帰還者の。社内で、私が気づいたぶんだけです」
信号が青に変わる。
俺たちは横断歩道を渡り、ビルの陰で別れた。
少し走って、雨が落ちてきた。
最初の一滴が頬に冷たく、次の瞬間には、ざあっと世界が湿る。
ポケットの中の封筒は、まだ無事だ。
胸の箱の熱も、まだ無事だ。
会社の方角に、一度、振り返る。
――誰かが、こちらを見ていた。
雨に滲むビルのガラスに、ぼやけた影。
角のない、角のはずの影。
スマホが震く。
《明朝、二階の踊り場。ひとりで来ないで》
送り主は、名前を名乗らない。
ただ、白い花の絵文字――ではなく、手描きの小さな花の写真が添付されていた。
ここではただの写真。
帰還者には、道標。
剣はしまった。
でも、戦いの順番は、もう始まっている。
明日の朝、二階の踊り場。
俺は、ひとりでは行かない。白崎と行く。
“抜け殻”になる前に、誰かを呼び戻すために。




