第1話「異世界帰りの朝」
剣先を振り下ろした次の瞬間、俺は蛍光灯の白に目を細めていた。
魔王の玉座が消え、そこにあったのは、黒いモニターと椅子の背中と、湯気の出ない社内ポットだった。
時計は午前七時五十二分。
勇者職、出勤十分前。
机の引き出しには、魔法の巻物ではなく交通系ICカード。
鞄には、聖剣でも賢者の石でもなく、ノートPCと充電器と領収書の束。
異世界で受けた女神の祝福は、背広の内ポケットに入らないらしい。
スマホが震えた。
《今日の朝会、発表おねがい》
上司のメッセージ。語尾の顔文字がないのは平常運転、もしくは機嫌が悪いサインだ。
そうか。俺は帰ってきた。世界は俺の都合を待ってくれない。
顔を洗うついでに鏡を見る。
顎の線、寝癖、無精ひげ。異世界で「英雄」と呼ばれていた顔は、ここでは「寝不足の社会人」に過ぎなかった。
けれど、肩の内側にまだ熱が残っている。
魔法陣の跡は消えたのに、魔力は消えなかった。
電車は相変わらず満員だった。
俺は小声で呟く。「〈風の薄衣〉」
人の圧が、ふっと軽くなる。周囲の空間密度だけが一枚、薄紙みたいに剥がれた。
隣のサラリーマンが「あれ、今日は余裕あるな」なんて顔をして、スマホを持ち直す。
罪悪感がないわけじゃない。でも、これは俺の“疲れないための”手加減だ。
オフィスに着く。自動ドアが開くより早く、俺の〈開錠〉が鍵穴の仕組みを読み、勝手にセンサーを通す。
受付の観葉植物に水滴が残っている。誰かが朝早くに手入れしたのだろう。
異世界では、朝一番に井戸の水面を見た。今日は、ガラスの向こうの街が薄く白い。違いは多いが、朝が少し冷たいのはどちらも同じだ。
自席に腰を下ろし、PCを叩く。
カタカタという音に、剣の鍔鳴りは混ざらない。
画面に広がるのは、魔王城の地図ではなく、プロジェクトのガントチャート。
締切は赤、遅延も赤、担当者の顔色だけが灰色。
「おはよう、帰還勇者」
隣の席の後輩、佐伯がひょいと顔を出す。俺が長期の有給を取っていたあいだ、彼が穴を埋めていた。異世界の時間では一年だが、こちらでは二週間――といっても、俺の中の二週間は二万時間くらいの密度があった。
「お土産は?」
「魔王の角……は持ち込み禁止らしいから、代わりにコンビニのドーナツ」
「それ、勇者の報酬にしては庶民派すぎません?」
笑いながら袋を受け取る彼の指に、紙の粉がつく。俺は無意識に〈清浄〉をかけ、粉はすっと消えた。
「今、なんかしました?」
「気のせいだ」
朝会。
会議室の空調の音だけが、会話の合間を埋める。プロジェクターの光は魔法陣ほど綺麗じゃない。
進捗は、案の定、悪い。
俺の担当していた実装タスクの横に、「未着手」
異世界では“命”が締切だった。ここでは“納期”が命だ。
「高城くん(←俺)、この二週間で遅延が出てる。今日の夕方までに目処出せる?」
上司の声は、魔族の将軍より冷たいときがある。
「はい。夕方までに」
言いながら、俺は机の下で〈時術〉を起動させていた。時間を伸ばすんじゃない。俺の“集中だけ”を伸ばす。
目の前の時間は誰のものでもない。俺は俺の分の時間を全力で燃やす。
発表の番が来る。
胸の奥で〈威気〉が勝手に膨らむのを、そっと押さえる。ここでやるべきは敵の士気を削ぐことじゃない。合意形成だ。
「設計、三箇所ほど軸がぶれているので、先に“前提”を揃えたいです」
スライドの一枚目に、でかい字で「前提」。
異世界で覚えたのは、戦い方だけじゃない。勝つ前に、“戦う理由”を共有することだった。
三分で空気が変わる。
「それなら確かに…」「前提が違ってたか」
会議後に上司が小声で言った。「話、うまくなった?」
俺は肩を竦める。「ちょっと、剣を置いたら口が回るようになりまして」
昼。
会社の食堂は、王都の大市場に比べれば、味気ない長机の連続だ。
けれど、トレーに載せた白飯の湯気は、異世界のスープと同じくらい温かい。
佐伯と並んで座る。
「二週間いなかった間に、白崎さんって新しいひとが入ったんですよ」
「白崎?」
「総務。すごいできる。書類の城壁を軽々抜けるタイプ」
どんな比喩だよ、と思いながら、俺は湯気越しに食堂の出入口を見る。
白いブラウス、紺のスカート、淡い色の名札。
白崎――聖。
名前を読んだ瞬間、心臓が一拍、落ちた。
聖。
聖女の名だ。俺の世界で、最後に背中を押してくれた人の名。
もちろん、別人だ。別人のはずだ。
彼女はトレーを持ち、軽く会釈をして通り過ぎる。
その手の動きが、ほんの一瞬だけ、誰かに似ていた。
俺は白米に箸を刺して、現実に戻る。
食後のコーヒーは苦かった。苦味が、眠気と、記憶の境界を引き戻した。
午後。
コードを書く。
キーバインドが指の“型”に馴染む。剣術と同じで、型を崩さないほうが強い。
バグが出る。
原因を追う。
ログを読む。
魔法陣の線が一本違うだけで術が暴発した。あれと同じだ。
俺はモニターの前で、昔の癖で息を止め、ゆっくり吐いた。
〈見抜き〉
目に見えない糸が、コード上の“矛盾”に触れる。
行番号が、赤い糸みたいに浮かぶ。
カチ、と一行。
ビルドが通る。
音もなく、画面が正しく描画される。
達成感はある。けれど、歓声は上がらない。
異世界では、仲間が肩を叩き、酒場で歌が生まれた。
ここでは、通知音が鳴って、チケットのステータスが一段階進むだけだ。
夕方。
進捗報告を送る。
《助かる》
上司から短い返事。
嬉しい、のとは違う。安堵だ。
人を救うのは、世界だけじゃない。
誰かの夕飯を、少し楽にできることがある。それはそれで、善い。
定時。
俺は席を立つ。
異世界の“勝ち”は、生きて帰ること。
現代の“勝ち”は、時間を持って帰ること。
夕焼けに染まる通りで、俺は深呼吸をする。
風がネクタイを揺らす。
〈風纏い〉
音が少しだけ柔らかくなる。
夕焼けが剣の刃みたいに眩しくて、目を細める。
会社の裏手に、小さな公園がある。
ブランコのチェーンが軋む音が、遠い村の井戸の音に似ていた。
ベンチに腰を下ろすと、ポケットの中でスマホが震えた。
未知の宛先からメールが一通。件名は――《帰還者へ》
心臓が二度、三度、間違ったリズムで跳ねる。
本文は短い。
『あなたは、扉を閉め忘れている。
──白い花の下で、話をしよう。』
添付ファイルには、地図と時間。
“白い花の下”、それは俺だけが知っている印だった。
異世界で仲間と使った、隠し場所の合図。
ここにも、あるというのか。
疑いは当然だ。
けれど、胸の奥で、忘れたはずの熱が強くなる。
「高城さん」
背後から、柔らかい声。
振り返ると、白崎が立っていた。
公園の白い花――夾竹桃の前。
彼女は名札を指で軽く押さえ、少しだけ困ったように笑う。
「さっき、会議室に忘れ物です。これ、落ちてました」
差し出されたのは、俺のUSBメモリ。
けれど、俺の視線は、彼女の“手首”に留まってしまう。
薄い皮膚の下で、ほんの一瞬、光が揺れた。
魔力の“脈”だ。
こちらの世界にはないはずの、脈。
「大丈夫ですか?」
「……ええ」
言葉は出たのに、声は少し遅れていた。
彼女は公園の白い花に視線を移し、まるで独り言のように言う。
「この花、向こうでは『迷い返し』って呼ぶんですよね」
向こう。
その一語で、世界が二度、裏返る。
否定も驚きも、同時に喉につかえて出てこない。
彼女はポケットから、白い封筒を取り出した。
便箋の角が、彼女の指で真っ直ぐに揃えられている。
「ここでは、ただの夾竹桃。
でも――“帰ってきた人”には、別の名前で届く」
封筒には、手書きの文字。
《白い花の下で》
メールの文面と同じ言葉。
「高城さん」
白崎は、仕事中とは少し違う、柔らかな目をした。
「定時、おめでとうございます」
それから、囁くように続けた。
「そして、おかえりなさい」
夜風が、スーツの裾を撫でる。
俺は封を切らずに、封筒の重さだけを確かめた。
異世界から持ち帰ったものは、力だけじゃない。
手紙の重さに似た、もう少し目に見えないものだ。
“閉め忘れた扉”があるのなら、きっと開け直す方法もある。
ただし、今度は――定時のうちに。
スマホの画面に、新しい通知が灯る。
《明日、昼休み。屋上で》
送り主の名前はない。
けれど、公園の白い花の下、二人分だけ風がふわりと薄くなった。
俺は笑って、頷いた。
勇者の戦場は、まだ続く。剣を置いて、言葉で戦う日々だ。
その始まりに、今日という朝は、思ったより悪くなかった。




