序章
令和の時代で生活していた50代の夫婦が戦国時代の南常陸豊田郷にタイムスリップして…
完全に豊田氏寄りの物語です。
多賀谷氏寄りの方々はお読みにならない方が良いかもしれませぬが…
「そんな作り話、ええ加減にせんかい!」と笑って読み飛ばして頂けますと幸いです。
処女作につき、至らぬ点、不可解な点、、、多々有るとは存じますが、そこは何分、平に御容赦頂きまして最後までお付き合い下さいますよう宜しくお願い申し上げます。
某の名は永田重兵衛常充。
第二十代豊田家当主豊田治親様の家臣である。
とは言うものの、実はつい先日までは令和の世の中で暮らしていたのだが…
2020年頃は、綺麗な月が出ている晩には必ずと言って良い程、夫婦で豊田城までドライヴに出掛けたものだった…
「今夜の月は随分大きいわ!」
「ほぼ満月だね、いや、満月なのかな?」
「色も凄く濃いの!」
「お城と絡むと素晴らしいだろうね。」
等と言い合いながら私達は国道294号線を取手市内から下妻方面へ向かって愛車のシビックを走らせていた…
途中いつもの、馴染みのコンビニエンスストアで飲み物やおにぎり、ポテトチップス等を仕入れたりして…
月に映える豊田城を眺めることは私達夫婦共通の楽しみではあったのだが、そこに辿り着く迄の間、それらをパクつくことこそが奥さんにとっては一番の楽しみなのであった。
取手市の我が家から常総市の豊田城迄、片道25~26km位だろうか?
往復で優に50kmを越えるのだから、まぁ何か摘まみたくなるのも仕方のないところだろう。
何を隠そうこの私も少なからず御相伴に預かっていたのだから…
水海道を抜けて圏央道を潜れば、やがてライトアップされた美しい豊田城がその荘厳な姿を現し始める。
「石毛紫峰高校東」という交差点を左折して最初の信号を右折すると5秒くらいで我殿の居城豊田城に到着だ。
何も知らずにそこへ行くと、その大きさと美しさに心を奪われることになるだろう…
我々夫婦がそうであったように…
そうしていつしか、月夜の晩にはいつも豊田城の前を通るナイトドライヴが私達夫婦のルーティンとなっていったのだった…
その年は息子が高校3年生になり、進学先をどうするのか…夫婦で悩み始めた頃だった。
幼い頃から水泳を習い始め、茨城県内では常にトップクラスの成績を修め、全中やインターハイでも活躍してきた息子だったが…
一番大事な高3のインターハイが新型コロナウィルス感染症拡大の影響で中止になってしまったのだ。
前年のインターハイでは決勝に進むことが出来ずに悔し涙を流していた…
今年こそはと意気込んでいただけに息子の落胆ぶりたるや…親の私達からしたら、それはもうあまりに不備で…
それも無理からぬ話である、なぜならその年のインターハイの結果次第では息子の進学先は大きく変わるはずだったのだから…
一世一代の一発勝負に懸けるはずの晴れの舞台が無くなってしまったのだから落ち込んで当然、積み上げてきたモノを披露する場を失ってしまい抜け殻状態に陥っている息子の進路を模索する日々が始まった年だった。
小学校最後の年、茨城県学童水泳競技選手権大会の決勝で真ん中のレーンを泳ぐ息子を観ていた…
まるでイルカがプールを泳いでいるかの如く軽やかに、しかし力強く泳ぐ息子を誇らしげに見ていた…
割れんばかりの拍手と祝福の中、表彰台の真ん中で照れ臭そうに手を振り微笑む幼い息子の笑顔が今でも私の脳裏に焼き付いている…。
「この子に泳ぐことをやめさせてはならない!」
「何としても大学迄行って泳ぎ続けてほしい…」
「この子なら、もっと大きな舞台で泳げるはずだ…」
「良い監督、コーチの居る大学を探さなければ…」
偏差値や知名度よりも素晴らしい監督と環境の整っている大学を私達は懸命に探した…
そして夫婦揃って、とある大学に辿り着いたのだった。
全ての条件が私達の探していたものと一致する唯一の大学。
その日以来、ナイトドライヴで豊田城の前を通る時は必ずお城の方に向かって…
「どうか息子をあの大学に入らせて下さい!」なんて夫婦揃って何となくお願いするようになっていった。
2020年6月10日(水)、いつものようにその大学のホームページを見ていると「チャット」が出てきた…
暫くそれを弄っていると、その大学の入試センターの方と繋がって「水泳部の監督と直接メールでお話しされては如何ですが?」と返信が来た!
私は嬉しくなって「是非お願いします!」と返信した。
早速、監督からのメールが届いた!
私は息子のプロフィール、持ちタイム等を監督に送ってみた…
すると暫くして監督から返信が届いた!
「一度、泳いでる所を見たいから大学の方へ遊びに来て下さい!」
私達は興奮して手を叩いて喜んだ!
オリンピックに5大会連続で選手を送り込んで来た、あの名伯楽からの直々の招待のメールが届いたのだ!
そこからは話がトントン拍子で進んで、我が息子は晴れてその大学に合格し水泳部に入部することを許可されたのだった。
今思えば息子の実力があった事は間違いの無い事だろうが、私達夫婦は、そこへ何か不思議な力が働いて導かれていった様な気がしてならなかった…
そして、12月のとある晩、私達が豊田城の前を通った正にその時、それは確信へと変わっていった…
「さっきまで曇っていたのに見て!綺麗なお月様!」
「本当だ!」
「息子が無事大学に合格できました!本当に有り難うございました!」
なんて夫婦揃って豊田城の方に向かってお礼の言葉を述べていると…
ピカッと天守閣が光った様に見えた気がした…
私達は顔を見合わせた…
「今の…見た?…」
「見た…」
「ピカッて…」
「光ったよね?…」
「何だろう?…」
「判らないよ…」
「でも何か映画のワンシーンみたいだった…」
「うん…」
「きっと、お城に殿様が居らっしゃるのよ…」
「そうだね…」
「きっと…本当に殿様が私達の願いを叶えてくれたんだわ…」
「何か本当にそんな気がする…」
私達は二人で見たものに興奮して家に帰り着くまでずっとしゃべり続けた。
次の日の朝から私は豊田城の歴史についてインターネットを使って調べ始めた…
先ず驚いたことには、あの立派な豊田城は歴史上存在し得ないお城であったということ…
いや、正確に言うならば、豊田城はあるにはあったのだが、現在の豊田城とは全く違う、天守を持たない平城で、城跡も全然違う処にあるらしいのだった。
そして何よりも衝撃的だったのが、戦国乱世の時代に第二十代当主豊田治親公が譜代の家臣の手によって謀殺されてしまったということだった。
その週の日曜日の午後、私と奥さんは豊田城へ向かった。
正式名称は「常総市地域交流センター」というらしい…
私と奥さんが400円払って入館しようとしたら、入り口のおじさんが「今は無料で入れますよ」と教えてくれた。
私達は喜んで入城すると、いきなり蝋人形の侍2体に目が釘付けとなった…
豊田治親公が譜代の家臣の飯見大膳に毒酒を盛られて殺害される…正にそのシーンが再現されているではないか!
信頼していた譜代の家臣に裏切られ毒を盛られた怒りと無念さが入り交じった表情で最後の時を迎える豊田治親公のその顔が、その目が、私の心の奥底まで焼き付けられていった…
1階には他にコンサートホールがあったり、2階にも小ホールや図書室、3階4階には常総市の歴史や水害との戦いの歴史に関する資料等が展示されていた。
5階6階はフリースペースで地元の詩人長塚節のコーナーを横目で睨みながら私達はいよいよ7階の展望室と呼ばれる天守閣へと足を踏み入れた…
そこは常総市近郊を360°ぐるりと見渡すことが可能であり、その日はよく晴れていたので筑波山を間近に臨むことが出来た。
あの晩ピカッと光ったのは確かにこの場所のはずだ…
私と奥さんは何か夜に光りそうな物はないか天守閣の中を見渡した…
しかし、それらしい物は何も見つけられなかった。
私達は答えを見出だせないまま豊田城を後にした。
それからの私は何かに取り憑かれたかのように豊田家の歴史について調べ始めていった…。
それから1年と少し経った2022年の1月、私は豊田城に纏わる歴史に関わる場所(各氏の城跡、神社仏閣等々…)を探索し、その土地土地の人達に会い、詳しい話を伺いながらその空気に触れ、その往時を偲ぶことを密かな楽しみとして休日を過ごしていた。
だが、何時の時も心の中に何か虚しさのようなものが込み上げてくるのを感じていたのは、何処をどう調べ、訪ねて回ってみても豊田家第二十代当主豊田治親様が譜代の家臣の手によって謀殺されてしまったという歴史的事実を覆すような有力な材料を見付けることが出来なかったからなのか?
そんな冬のある日の夕方、私と奥さんは息子に会いに行った帰り、中央道を抜けて八王子から圏央道に入り、常総つくば方面へと愛車のシビックを走らせていた…
とは言うものの降雪の為、私達はスピードを押さえてゆっくりゆっくりと走っていた…
幸いタイヤとホイールは冬用の新しいものに換えていたので無理な運転をさえしなければ快適なドライヴが可能であった。
五霞・境インターを抜けて板東市に差し掛かった頃に雪が強くなってきて視界が極端に悪くなってきたので私は更にスローダウンして慎重にクルマを走らせた…
やがて私達は板東インターを抜けてもうすぐ常総インターという所まで差し掛かっていた…
「今日は初めて雪化粧した豊田城を拝めそうだね!」
「楽しみ!だけど運転気を付けてね!」
私達はいつも、常総インターで降りたら自宅のある取手方面ではなく、豊田城を眺める為だけに、わざわざ下妻方面へ向かい豊田城の周りをぐるりと回ってから家路に着くのがルーティンだった。
私はその時いつも天守閣に向かって…
「殿様、どうか父と母があと10年は心身共に健康で居られますように…私はこの先も家族をしっかりと養って行けますように…」なんてお願いしたりしていたのだった…
そして、いよいよ常総インターの出口方面に車線変更した正にその時…
突然、大型貨物トラックが反対車線から横転しながら私達の目の前に飛び出して来た!
私は突差に急バンドルを切ったがクルマはそのまま大型トラックにぶつかり、引きずられるように反対方向に押し戻されていった…
クルマは完全にコントロールを失っていた…
「どうか無事に止まってくれぇっ!」と私は祈りながら奥さんの手を握った…
やがて後方から激しくクラクションを鳴らす音が聞こえた…と思った瞬間、ビカッと白い光が見えて…ドーンという物凄い衝撃と同時に私達の記憶は途切れた…。