第9話「足音」
夜明け前の濃霧は、午前を過ぎても完全には晴れなかった。
桜丘アパートの前には、まだ黄色い規制テープが半ば垂れ下がっていた。
愛美がここに再び足を運んだのは、今朝届いた一本の電話のせいだった。
発信者は記者クラブの古い知人、刑事課担当の中堅記者。
「例のアパート、二人目が出た。発見者は隣室の男。昨夜からテレビの音が異様に大きくて、壁越しに変な音も聞こえたらしい。……『ちゃぷちゃぷ』って」
その言葉だけで、愛美の背筋に冷たい電流が走った。
隣室の住民は、午前五時過ぎ、異様な音と異臭に気づいて管理人に連絡。
駆けつけた警察が鍵を開けると、203号室の大学生――佐藤悠真がベッドの上で息絶えていた。
死因は溺死。
浴槽は空。部屋には水を張った痕跡はないのに、床は濡れ、壁は曇り、寝具からは雫が滴っていたという。
愛美は規制線の外から、隣室の住民が事情聴取を受けている様子を遠くから眺めた。
彼は顔色が悪く、何度も「水音が……」と繰り返している。
記者としての好奇心と、何か得体の知れない引力に突き動かされるまま、愛美は取材用のICレコーダーをポケットに忍ばせ、現場近くまで歩を進めた。
規制線の中では、鑑識が最後の撮影を終えて機材をまとめているところだった。
愛美は知人記者の紹介という形で短時間だけ現場を確認させてもらう。
室内はすでに大方片付けられていたが、床のカーペットにはまだ暗い色の濡れ跡が残っていた。
その形は、不自然に小さな手形のようにも見える。
「……やっぱり」
前回の現場と同じだ。
壁紙にはうっすらと、指先で押し付けられたような形の染み。
湿度は異常に高く、外の霧とは別種の重たく淀んだ空気が肌にまとわりつく。
ふと、足元で「ぴしゃ」という微かな水音がした。
慌てて見下ろすが、そこに水たまりはない。
それでも――音だけは、耳元で生々しく響く。
その瞬間、愛美の耳の奥で、前にも聞いた声が囁いた。
――「……こえを、ちょうだい……」
心臓が跳ね上がる。
振り向いたとき、視界の端に一瞬、黒髪の濡れた影が揺れた気がした。
しかし、そこには誰もいなかった。
警察が施錠を終え、現場から人が引き上げていく。
愛美は一歩外に出ながら、自分の喉が乾ききっていることに気づいた。
二人目――。
これは偶然ではない。
彼女の中で、何かの輪郭がはっきりと形を取り始めていた。
それは、礼子と名乗ったあの少女の存在と、確実に重なっていた。