第8話「湿る痕」
夜明け前、濃霧に包まれた郊外の住宅地。その一角にある古いアパートの一室で、二人目の死者が発見された。
遺体の発見者は隣室の住人。午前五時頃、壁越しに聞こえた「水を搔くような音」と、途切れ途切れのうめき声に違和感を抱き通報したという。警察と救急が駆けつけたとき、扉には鍵がかかっており、窓もすべて内側から施錠されていた。
部屋の主、大学生の男性は、ベッドの上で事切れていた。
死因は――溺死。
だが、前回と同様に不可解な点が多すぎた。部屋に水を張った痕跡はなく、風呂場も空だった。にもかかわらず、床は濡れ、壁は曇り、毛布からはしずくが落ちていた。
取材の電話が編集部に舞い込んだのは朝八時。すぐに動こうとした愛美だったが、先に呼び出されたのは、警察記者クラブに顔の利く上司だった。
「お前は、前回の件だけで十分だ。今度は警察もピリピリしてる。余計な動きすんなよ」
そう言い渡され、愛美は一人、歯噛みする。
だが、手をこまねいているわけにもいかなかった。
スマホを開き、彼女は菊地恵へメッセージを送る。
《ニュース、見た?また出た。今度は大学生。現場は◯◯市桜丘アパート。何か心当たりない?》
返信はなかなか来なかったが、十時を回ったころ、簡素な一文が返ってきた。
《その部屋、知ってる。私の友達が昔、住んでたとこ》
愛美はすぐに通話を繋げた。電話口の恵の声は、どこか震えていた。
「やっぱり……あそこ、変だったんだよ。友達って言っても、そんなに親しくはなかったけど……たまに遊びに行ってたの。部屋、いつも湿ってて……真冬でも結露がすごかった。天井とか壁の継ぎ目に、妙な染みが浮いてて……」
「染み?」
「ええ、なんか、手形みたいな……子供の。それがじわじわ動いてるように見えるって、本人が言ってた。あたしは見えなかったけど。でも、その子……引っ越してから、突然、連絡が取れなくなって……」
「まさか……」
「その人じゃない。名前違うし、時期も離れてる。ただ……あの部屋、そういうの、溜まるんじゃないかって……」
愛美の背筋に、冷たいものが走った。
その“溜まる”という言葉の、意味。
静かに、誰かの声が蘇る。
――「……こえを、ちょうだい……」
礼子の声。
二人目の犠牲者。
それが偶然である確率は、もはやゼロに近い。
その夜、愛美は改めて一人、桜丘アパートを訪れた。
すでに警察の規制線は外されていたが、事故物件として不動産屋に鍵が戻される前のわずかな空白。彼女は旧知の記者仲間から鍵番号を聞き出し、手袋をしたまま扉を開けた。
部屋に入った瞬間、湿った空気が肌に絡みついた。
壁のクロスには、やはり手のひらのような染み。前回見た子供の手形と、酷似していた。
床を一歩進むたび、水音がする。だが水たまりは見えない。音だけが、どこかで鳴っている。
愛美はそっとボイスレコーダーを取り出し、録音を開始した。
「2025年7月31日。斉藤愛美。桜丘アパート203号室、室内調査中……湿度異常、構造に不自然な点は……」
そのときだった。
部屋の奥、閉じられたクローゼットの扉が、ギィ……と軋んだ。
開いていく。
誰も触れていないのに。
中は暗い。
だがその奥、衣類の影から、こちらを見つめる二つの瞳があった。
濡れた黒目。じっと動かない。
愛美は凍りついた。
だが次の瞬間、それは霧のように揺らぎ、消えた。
気配だけが残った。
そして、その直後。
レコーダーが勝手に停止した。
画面には「ファイル破損」の表示。
何も、記録されていなかった。