第7話「鈍響」
旧校舎からの帰路、愛美はしばらく言葉を発せなかった。録音データを再生することすら躊躇われた。あの空間にまだ“何か”が残っている気がしてならなかったのだ。彼女の耳には、今もかすかに、湿った足音の残響がまとわりついている。
帰宅後、愛美はシャワーを浴び、レコーダーとスマートフォンをアルミケースに密閉して保管した。その夜は、何かに触れるのが恐ろしく、灯りをつけたまま眠りに就いた。
だが――午前3時17分。
目覚ましも鳴っていないのに、突然目が覚めた。部屋は静まり返っている。しかし、何かが違った。空気の密度が異様に重く、湿度が肌にまとわりついてくる。
(……まただ)
半身を起こし、足元に目をやる。何もない。
そのままキッチンへ行き、ペットボトルの水を手に取った瞬間、冷蔵庫の表面に、曇ったような文字が浮かんでいた。
《みてる》
手が震える。もう一度目をこすっても、文字はそのままだった。まるで、内側から誰かが指でなぞったように。
その時、ポケットに入れていたスマートフォンが突然バイブレーションを鳴らした。
メッセージ――差出人は不明。
《あなたの声が、聞こえた》
《もっと近くに、きて》
愛美は咄嗟に、メッセージをスクリーンショットしようとしたが、画面が真っ黒になり、そのまま再起動が始まってしまった。
翌朝、彼女はその足で図書館へ向かった。
目的は――「声」と「水」に関する失踪事件の類例を探すこと。
地元の新聞アーカイブや古い郷土誌を丹念にめくっていく中で、ある一冊の資料が彼女の目に止まった。
『水原郷土怪異譚集』
戦前の伝承や未解決事件をまとめた、今は絶版となっている自費出版書籍。その中に、こんな記述があった。
《昭和32年、旧・水原北線沿線にて、通学中の女児が失踪。後日、地下通路にて校帽のみが発見された。湿度が異様に高く、回収された帽子は未明の露に濡れたようにしっとりしていたが、雨天ではなかった》
《翌年、別の女子児童が駅裏の林道で「濡れた子に呼ばれた」と話し、そのまま姿を消す》
《以降、毎年のように水害が起きていないのに「水難事故」による死者が出たことから、地元では“声に返事してはいけない”という風習が生まれた》
愛美は身を乗り出した。
――“声に返事してはいけない”。
昨夜、自分はあの旧校舎で確かに名を呼ばれ、そして、応じてしまった。
鳥肌が立った。これは、礼子だけの問題ではない。もっと根の深い“何か”が、この土地にずっと棲んでいる。
愛美はその後、駅裏の林道を実際に歩いてみることにした。
林道には、人の気配はない。しかし、湿った草のにおい、遠くから聞こえるカラスの声、それらが妙に彼女の神経を逆撫でする。
途中、小さな祠を見つけた。
中には、水神を祀ったとされる錆びた小さな銅像が置かれていた。
その台座には、何かが刃物で刻まれていた。
《コエヲ カエシテ》
その文字を見つめた瞬間、耳の奥に、あの湿った音がぶり返した――
――パチャン。
彼女は振り返った。
……誰もいないはずの林の奥に、白いワンピースがふわりと揺れていた。