第6話「湿度」
旧・夕ヶ丘駅からの帰路、愛美の足はまっすぐ自宅へ向かわなかった。
奇怪な音声の残るレコーダーを鞄に押し込んだまま、彼女はふと電車を乗り継ぎ、礼子の出身小学校――谷原第一小学校の旧校舎へ向かっていた。
かつて近隣の再開発の影響で廃校となり、現在は隣接する文化施設の倉庫として扱われているらしい。住所は辛うじて市の教育資料に残っており、建物自体もまだ解体されずに現存している。だが、不自然なほど人の気配はなく、グーグルストリートビューでは最後に撮影されたのが4年前の秋だった。
駅から歩いて十五分。
午後の曇天の下、住宅地を抜けると、草に埋もれかけたアスファルトの通学路と、その先にぽつんと立つ古びた校舎が現れた。
入り口に鍵はなかった。建物の使用者がいないためか、校舎の引き戸は半ば壊れかけており、押せば容易に開いた。
中に足を踏み入れた途端、熱気とは別の種類の“湿度”が肌にまとわりついた。駅の地下と似ている。だがそれ以上に、何かが「続いている」感覚があった。場所を変えても、あの気配だけは離れてくれない。
(どこかで、見てる……)
廊下の床はすでに浮いて軋み、壁紙も半ば剥がれ、天井には雨漏りの痕が黒く滲んでいる。
愛美は録音機を再び起動し、口を開いた。
「2025年7月29日16時。旧・谷原第一小学校内部。雨漏りおよび老朽化の影響で天井および床に破損あり。湿度は高く、独特の匂い……鉄と、腐敗した水のような……」
音声に集中しながら歩く。やがて、旧・理科準備室の札が掲げられた扉の前で足が止まった。鍵はかかっていなかった。扉を引くと、内部には古い黒板と棚、そして中央には使用されていない水槽が置かれていた。
その水槽の中に――何かがいた。
かつて生物の標本か何かを保存していたのか。液体はほとんど蒸発して空になっていたが、底には、黒い布の切れ端のようなものが沈んでいた。
近づいてよく見ると、それは校章の一部だった。
制服の胸元につくはずの、それと同じ意匠。
愛美が息を呑んだ瞬間、水槽の底から――音がした。
ポチャン。
見間違いではない。確かに、何も触れていないはずの液体の底が、一瞬だけ波打った。
その直後、レコーダーのノイズが急激に増幅し、再生ボタンも押していないのに過去の録音が始まった。
《……こえを、ちょうだい……》
愛美は反射的に機器を停止させ、息を潜めた。教室の外で――誰かの気配がした。
ガタン。
廊下の奥、理科室側から何かが倒れるような音。
愛美はそっとドアを閉め、懐中電灯の灯りを絞りながら部屋の奥へと退いた。
やがて廊下を軋ませて歩く、濡れた足音が聞こえてきた。
ペタ、ペタ、ペタ……
その足音は、理科準備室の前で止まり、数秒の沈黙の後――
コン……
コン……
扉を叩く、音。
愛美は奥歯を噛みしめた。
(音が……部屋に、入ってきてる)
何も見えないのに、音だけが明確に空間を移動している。目に見えないものが、空気の中で確かに“在る”という実感。
そのとき。
「――礼子?」
誰の声でもなかった。
それは、愛美の口から不意に漏れた。無意識の問いかけ。けれども返事はなかった。
ただ、再び水槽の中の布片が、ぽたり、と揺れた。
その動きはまるで、水の中から「見ている」かのようだった。