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Deeps  作者: 蒼乃謙十郎
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第4話「水痕」

午後、自宅のPCに届いた一通のメッセージが、愛美の行動を決定づけた。


《映像、見た?あそこ、夕ヶ丘駅跡だと思う。北側の線路沿い、小学校の裏手に抜ける林道がある。昔、通学で使ってた人なら知ってるかも。廃駅になってるけど、地下に何かある。……もし行くなら、録音して。たまに記録が“残らない”ことがある。》


差出人は、あのドライブレコーダーの映像を投稿していた菊地恵。直接の連絡は初めてだったが、その文面には奇妙な確信と切迫感がにじんでいた。メッセージには、動画ファイルも添付されていた。


映像の冒頭には、恵とその彼氏らしき人物の声が記録されていた。


《……ねえ、マジでやめようよ、怖いって……》

《平気平気。駅の地下、ほんとに入れるんだって。肝試しって言ったのはそっちでしょ?》

《でもさ、これ録ってどうすんの?》《記念、記念。ほら、行くよ……》


続く映像は、手持ちのスマートフォンで撮影されたと思しき不鮮明なものだった。夜間、懐中電灯の光に照らされた雑草だらけのホーム。地下に降りる錆びた階段。湿気に曇るレンズ越しに、暗いコンクリートの空間が広がっている。断続的に聞こえるのは、水の跳ねる音――それが波紋のように壁へ伝わり、濁った空気に溶けて消える。


画面がぐらつき、何度かノイズが走った後、映像の隅に、一瞬だけ“それ”が映り込んだ。


白いワンピースのような服。濡れた髪。壁に手をつき、こちらに背を向けたまま、何かを探すように動く少女の後ろ姿。


それが礼子なのかどうか、断言はできなかった。ただ――画面の最後、少女がゆっくりと振り向き、カメラの方を見たように感じた。


愛美はすぐに地図を開き、恵の記述に合致する「旧・水原北線」沿線にある、現在廃線となった小駅の存在を確認した。


「夕ヶゆうがおか駅」――今は列車も通らず、地図上でも薄く表示されているのみだが、かつて礼子の通学圏内に位置していた。


その場所が、すべての発端かもしれない。


午前十一時。濁った曇天の下、愛美は草むらを掻き分け、駅舎跡らしきコンクリートの台座に辿り着いた。錆びついた金属の柵と、苔の匂い、動物のものとも人のものともつかない足跡。そして、妙に湿った空気。


誰もいないはずの場所に、確かに「誰かの気配」があった。


(空気が、鳴ってる……?)


木々の合間を風が吹き抜けると、どこからか「水の跳ねる音」が聞こえた。単なる小川のせせらぎではない。粘り気を持った膜が何かを這うような、濡れた肉の音に近い。


踏み入れるたび、足元の土がぐしゃりと鳴いた。やがて、駅舎跡の地下へ通じるコンクリートの穴を見つける。塞がれたはずのシャッターは、歪にめくれ上がり、その下から闇が息づいていた。


その瞬間、携帯に再び通知が来た。送り主は菊地恵だった。


《現地、確認できた?もし入るなら、録音機を回しておいて。記録が残らないことがある。》


“記録が残らない”。その言葉の意味はわからないが、ただの比喩ではないことを、愛美の本能が察していた。


愛美は小型ボイスレコーダーをポケットに忍ばせ、ゆっくりとその穴に足を踏み入れた。


中は異様なほど静かだった。空間が音を吸い込むかのようで、自身の呼吸すらぼんやりと聞こえる。通路の壁には、得体の知れない水滴がゆっくりと蠢きながら流れている。光源はわずかな懐中電灯のみ。だがそれが照らし出すものは、ただの廃墟ではなかった。


壁一面に、なぜか子供の手形がびっしりと残されていた。


そのすべてが、水に濡れたような光沢を放ち、まるで今しがた押されたばかりのように生々しかった。


愛美はレコーダーを起動させ、声を潜めて語りかけた。


「2025年7月29日。斉藤愛美。旧・夕ヶ丘駅跡地にて調査を実施中。通路は地下構造になっており、構内湿度異常……明らかに自然ではない濡れ方が壁面に観察される……」


録音しながら歩みを進めたその先、突き当たりの鉄扉が半開きになっていた。


その部屋の中、中心に置かれた白い長机の上に、黒ずんだ制服が置かれていた。


それは、朝霧礼子のものだった。


胸元には、剥がれかけた名札がかろうじて残っており、“あ”の文字が擦れて読めなくなっていた。だが、袖口には見覚えのある刺繍があった――先ほど三枝から渡された、ノートの切れ端と同じ花のモチーフ。


愛美は手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。


制服の周囲だけ、空気が沈んでいるように見えた。まるで、そこだけ水中にあるかのように、歪んでいる。


不意に、背後から水音。


パチャン。


振り返る。誰もいない。ただ、床に濡れた足跡が一つだけ増えていた。


愛美の心臓が嫌な鼓動を刻む。


その足跡は、自分が通ってきた道とは逆方向から続いていた。つまり、誰か“別のもの”が、奥から自分の後ろに近づいたということになる。


慌てて懐中電灯を向けるも、光はまるで霧の壁にぶつかるように進まない。見えない、しかし何かがそこにいた。音のない気配が、呼吸の背後にまとわりつく。


パチャン、パチャン、パチャン……


音は背後から近づき、止まった。


愛美は意を決し、声を上げた。


「……誰か、いるの?」


沈黙。


ただひとつ、どこからか囁くような声が聞こえた。


――「みつけて……」


愛美は反射的に飛び出し、地上へと駆け上がった。


蒸し返すような外気の中で、膝をついて荒く呼吸を繰り返す。


背後を振り返ると、地下へ続く闇は、もう何も語らないただの穴になっていた。


しかしそのとき、ポケットのレコーダーが勝手に再生を始めた。


最初は愛美の声。


《……異常……濡れ方が……観察される……》


その直後、愛美のものではない、別の声が重なる。


《……わたしは、ここにいる……ここにいる……こえが、ほしい……》


それは、ノートに書かれていた言葉とほとんど同じだった。


だが、違っていたのは声の主。録音されたその音は、確かに――礼子の声だった。


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