第3話「声」
朝霧家をあとにした愛美の足取りは重かった。
午後の日差しはじっとりと湿っていて、蝉の声も遠くぼやけて聞こえる。まるで空気そのものが水の膜に包まれているようで、呼吸すら湿気を含んで重たくなっていた。
静枝の言葉は断片的だったが、何かしらの核心に触れていた。礼子の失踪は単なる家出や事件ではなく、もっと根の深い、名前のつけられない“変化”によるもののようだった。
(……境界。水。声。霧のような何か。)
言葉にはならないが、直感的に「それ」が現実の規則とは異なる何かに属していることを、愛美は感じていた。
ある夜、愛美は礼子の通っていた中学校を訪れた。
当然、敷地内には入れない。だが校門の外、掲示板のガラスの内側に古びた「卒業生への連絡」や地域行事の案内が貼られていた。よく見ればその中に、「朝霧礼子」という名前を含んだ文章が小さく印刷されている。
《三年三組 朝霧礼子さんへの手紙・写真をお預かりしています。担任の三枝まで》
奇妙な貼り紙だった。失踪者に向けて「お預かりしています」とは、誰に向けての連絡なのか。
愛美は一瞬、背中に冷たいものが走るのを感じた。
翌日、愛美はその中学校の教員用出入口の前で、登校してくる職員に声をかけた。
「すみません、レヴェナントという雑誌の記者をしている斉藤と申します。朝霧礼子さんについて、当時の担任の三枝先生とお話できませんでしょうか」
名刺を差し出すと、相手の女性教員はしばらく迷うように目を伏せた後、
「……少し、お待ちください」と言って、校内に消えていった。
十数分後、グレーのジャケットを着た中年の男性が出てきた。三枝と名乗り、愛美の顔をじっと見つめた。
「礼子のことを、なぜ今?」
「ある映像を見たんです。彼女の姿を捉えた可能性があるものです。正直、私にもよくわからない。ただ、今も誰かが“彼女”に触れようとしている気がして」
三枝は小さく頷いた。
「……彼女は静かな子でした。だが、ある時期を境に少しずつ変わっていった。教室にいても、どこか水の中に沈んでいるような目をしていたんです」
「いじめですか?」
「いいえ、逆です。誰にもいじめられていない。だが、彼女は次第に“見えないもの”と話すようになった」
「それは……幻覚?」
「説明できません。だがある日、彼女が黒板にこう書いたんです。“わたしのなかに もうひとりいる”」
愛美はその言葉を飲み込むように聞いていた。
三枝はポケットから、小さな封筒を取り出した。
「これは彼女の机から見つかったノートの切れ端です。学校には残せませんでしたが、なぜか捨てられなかった。あなたが記者として追うなら、これを預けます」
受け取った封筒の中には、湿り気を含んだ紙片が折りたたまれていた。開くと、そこには震えるような筆致でこう書かれていた。
《あめのなか ひかりのなか わたしはみえなくなる でもそこにいる こえがきこえる こえがあふれて こえにならない》
言葉のリズムが詩のようだった。だが意味は捉えがたい。
その晩、愛美は資料を持ち帰り、机に並べて並列思考のように並び替えた。交差点のドライブレコーダー映像、アパートでの溺死体、自室の水たまり、朝霧静枝の言葉、そしてこのノート。
何かが繋がりかけている。けれど、あと一歩、霧が濃すぎて見えない。
愛美は窓を開け放ち、夜風にあたった。
遠くから、どこかで水の跳ねる音が聞こえた気がした。
それは蛇口から滴る音ではなかった。川のせせらぎとも違った。もっと人工的で、しかし生き物のような“動き”を持った音。
部屋に戻ると、愛美のパソコンに一件の通知が来ていた。
――《Re:映像の件》
差出人は、返信のなかった菊地恵からだった。