第1話「沈む日常」
斉藤愛美は、編集部の雑然とした空気に何かを期待することを、とうの昔にやめていた。以前は、キーボードの打鍵音や編集者たちのくぐもった怒鳴り声が生きた出版物の鼓動のように感じられた。だが今では、ただの雑音にしか聞こえない。途切れ途切れで、機械的で、まるで不調な心拍のようだった。
彼女はデスクに座り、ノートパソコンの光に照らされた目の下に薄い影を落としていた。画面には、完成にはほど遠い記事の草稿が映っていた。東北地方の霊媒師について書いたものだったが、陳腐な言葉が並び、核心にはまったく届いていない。点滅するカーソルが嘲るように、頼りない一文の末尾で瞬いていた。
「地元の人々は、この神社を幽霊が出ると信じている。」
愛美はため息をついた。こんなの、ジャーナリズムでも何でもない。
「愛美、五分後に企画会議始まるよ」
背後から声がかかった。落ち着いた、平坦な声。声の主は同僚の結城理紗だった。いつも冷静で、切れ味が鋭い。最近の愛美には到底持ち合わせていないものだった。
「ありがとう」
そう返しながら、彼女は草稿を最小化し、ノートを手に取った。
会議室はすでに人で埋まりつつあった。片面の壁には巨大なホワイトボードがあり、ライバル雑誌の見出しが赤いマーカーで殴り書きされていた。『岐阜に呪われた村』『遺書に書かれた謎の言葉──“大いなる水”』『ドライブレコーダーに映る消えた少女?』
編集長の南原忠が腕を組んで立っていた。こめかみに白髪が混じり、目つきは鋭い。
「売れる企画が欲しい」彼は短く言い放った。「噂だけじゃ足りん。実映像か、死者の数、あるいは政府の否定。それがなけりゃ今の時代は通用しない」
そして愛美の方に指を向けた。
「斉藤。霊媒師の神社記事──ボツだ。バズるネタを二日以内に持ってこい。それができなきゃ、今回の特集から外す」
愛美は黙って頷いた。だが、胸の奥には怒りと虚しさが渦巻いていた。
会議の後、彼女は編集部の屋上に出た。片手に缶コーヒー。風がブレザーの隙間から容赦なく吹き込む。やがて理紗がやって来て、隣に立った。手には自分の缶コーヒー。東京の夕暮れを無言で見つめていた。
「なんかさ……私たち、空回りしてない?」
愛美がぽつりとこぼす。
理紗は肩をすくめた。「その車輪に火がついてなければね」
二人はふっと笑った。久しぶりに自然な笑みが浮かんだ気がした。そのとき、理紗がコートのポケットからスマホを取り出した。
「これ見た? Redditとかオカルト系ブログでバズってる。マジでヤバい」
理紗はスマホを愛美に手渡した。画面では、揺れるドライブレコーダー映像が再生されていた。カップルの笑い声。雨粒がフロントガラスを打つ。信号が青に変わる。車が進み始めた──
少女が横断歩道に現れた。
悲鳴。急ブレーキ。カメラが揺れる。だが車が停止したとき、そこには遺体も血もなかった。
ただ、ボンネットに水しぶきが飛び散っているだけ。
愛美はその映像を三度見直した。一コマずつ巻き戻し、目を凝らした。編集の痕跡は見当たらない。トリックもない。
彼女の指がスマホを強く握り締める。久しぶりに、何かが胸に灯った。
好奇心。
その晩、帰宅した彼女はすぐに調査に取りかかった。映像に映るナンバープレートを手がかりに、投稿者を割り出した。アカウント名は「Megumilk79」。調べを進めると、どうやら投稿者の本名は菊地恵、29歳、埼玉県在住の可能性があった。
思い切って、彼女にメッセージを送った。
『月刊レヴェナントの記者をしています。ドライブレコーダーの件、お話を伺えませんか?』
返事は、なかった。
彼女は椅子にもたれかかり、目を擦った。部屋の中は冷蔵庫の唸る音だけが響いている。──そのとき、違和感に気づいた。
リビングの窓が、曇っている。
結露?
雨は降っていない。加湿器もつけていない。空気は乾燥しているはずだった。なのに、ガラスは濡れていた。
そして──水滴の音。
キッチンの方から、ぽとり。
彼女はゆっくりと振り返った。
もう一度、水音。タイルに水が滴るような音。しかし、蛇口は閉まっており、流しにも何もない。
心臓の鼓動が早まる中、彼女はキッチンへ足を進めた。
床の中央に、水たまりがあった。
どこから流れたものでもない。跡もない。ただ、そこに水が“存在”していた。