09 毒
灰色の雲が垂れ込めるような空気が、部屋の隅々にまで満ちていた。いつも整えられているはずのカリナの机の上も、今日は珍しく本が乱雑に積み上げられ、使いかけの香油瓶が蓋を開けたまま放置されている。
その中心で、カリナは長椅子にもたれながら、指の爪先にささくれがないかを念入りに探している。そんな彼女の前に直立し、エラは何かを噛み殺すように唇を引き結んでいた。
「……それで、進展はあったの?」
問いかけられたエラ・シュトランドは、一瞬だけ息を呑むようにして黙り込む。視線を彷徨わせながら、両手を組んで膝の上に置いた。
「……今日も……ロザリエ様に話しかけようとしたのですが、その……言い出せませんでした」
そう。毎日、少しずつタイミングを見計らっていた。
「カリナ様が、ロザリエ様の悪評を……」と口を開こうとするたび、ロザリエの柔らかな微笑みや、どこか達観した視線に遮られ、いつの間にか会話の主導権を握られてしまう。
言葉の端に気品を滲ませながら、肝心な部分には触れさせてくれない。まるで、すべてを見透かされているようだった。
「……もう、何日同じことを言っているのかしら?」
カリナは小さく溜息を吐き出し、長い睫毛に囲まれた蜂蜜色の瞳でこちらを睨んだ。
「期待していたのに。貴女なら上手くやってくれると」
エラは唇を噛みしめる。
責められるのが怖いのではない。ただ、苛立っているこの美貌の令嬢の前で、何も言えなくなる自分が情けなかった。それに何より、ロザリエに近づく度、胸の中で湧き上がる不快感。それは〝罪悪感〟なんて優しいものではなく、明確な〝敗北感〟だった。
カリナは椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄ると、閉じかけたカーテンを指先で軽く揺らした。
「……まぁ、いいわ。別の方法を考える。今はまだ、焦る時じゃないもの」
そして振り返り、微笑みながら告げた。
「エラ嬢。あなたは引き続き、ロザリエ様と〝仲良く〟していてくださる?」
あくまで丁寧な物腰で。けれど、そこには命令と同じほどの強制力が込められていた。
「……はい。分かりました」
そう答えたものの、エラの胸中では真逆の感情が吹き荒れていた。
(冗談じゃない……!)
何が〝仲良く〟だ。
あの女と一緒に微笑み、読んでもいない本の話に頷き、くだらないお茶の時間を演じるたびに、自分がどれほど惨めな気持ちになるか、カリナは分かっていない。
「……湯浴みをしてくるわ。少しの間、部屋を空けるけれど、好きにしていてちょうだいね」
そう言い残して、カリナ・オーディットはふわりと香油の匂いを残して部屋を出ていった。部屋の扉が静かに閉まり、軽やかな足音が廊下に消えていく。
その瞬間、室内の空気ががらりと変わった。
エラは机の前にぽつりと立ち尽くし、わずかに震える拳をゆっくりと握りしめる。
(……ロザリエ……!あの女……)
甘やかな声、優雅な所作、誰もが一目置く品格。そのどれもが偽りだと、カリナ様が言っていた。なのに、どうして。
(どうして、レアン様は……)
ロザリエの話ばかり。あの人が微笑んだ、あの人が何を読んでいた、あの人に贈った花束がどうだったか。話すたび、胸が焼けるように痛くて、熱くて、どうしようもない怒りに駆られる。
エラはゆっくりと、棚の前まで歩く。
ふと、自分の内に込み上げてくる衝動に、脳がついていかない。
「……なんなのよ……なんで、私じゃないのよ……!」
乾いた音が、部屋に響いた。
拳が棚の扉に叩きつけられたのだ。骨の奥まで響く痛みに、エラは一瞬顔をしかめるが、すぐにその表情が凍りついた。
棚の端————一見するとただの装飾のような木彫りの隅に、小さな段差が現れたのだ。
「……え?」
恐る恐る指を這わせると、そこには微かな隙間。棚の奥へと手を差し入れると、爪先が木の縁に触れた。指先で押し込むと、まるで音を飲み込むような動きで、〝それ〟は開いた。
————隠し棚。
そこには、二つの物が並んでいた。ひとつは、濃い紫色の液体が入った小瓶。
まるで熟れた果実の汁のような艶めきと粘性をたたえたその液体は、ただ見ているだけで不穏な空気を纏っていた。
そしてもう一つは、分厚い封筒に収められた一通の手紙。
羊皮紙に記された文字は、流れるような筆跡でずらりと綴られている。初めは意味をなさなかったその羅列の中に、ふとエラの視線が吸い寄せられた。文末。
そこには、確かにあった。
〝ゲラルド・オーディット〟
オーディット伯爵。レアンとカリナの父親の名だった。
その名前を見つけた瞬間、エラの胸がざわめいた。
手を伸ばすことすら、罪に問われそうな気がした。だが、それでも理性より先に手が動いていた。手紙には至る場所に皺や折り目が付いており、カリナが何度もこの手紙を読み直していた事が明らかだった。
恐る恐る、震える指で手紙の中の文字を視線でなぞる。
そこに綴られていたのは、美しい筆致による、しかし恐るべき毒の製法だった。
⸻
〝レペグリアの花弁は、熱湯にて煮出すことで、その毒性を抽出できる。
煮出した後は静かに冷まし、液を漉す。残った精液には、神経に緩やかに作用する麻痺性が宿る。服用後、数分で手足の力が抜け、呼吸が鈍くなり、最終的に意識を失う。〟
⸻
目を見開いたまま、エラはその内容に言葉を失った。
レペグリア……あの花が、毒に?
まさか、と何度も思う。けれどこの文は、明確にその方法を記していた。
〝この手紙は、決して他人に見られぬよう厳重に扱うこと。
取り扱いに失敗すれば、貴族としての名誉は愚か、命をも落としかねない。
慎重に————そして確実に。
————ゲラルド・オーディット〟
(どうして、こんなものが……)
目の前の文字がにわかに現実味を失っていくような錯覚に陥りながらも、エラは視線を小瓶へと移した。
(こんなものを……何に、使うつもり……?)
呼吸が浅くなり、胸が詰まる。
けれどその疑問と同時に、別の思考が、頭の奥にじわりと広がり始めていた。
ロザリエのこと。レアンのこと。自分のこと。
(これが……この毒が、もし、使えたなら……?)
窓の外で吹く風が、カーテンを揺らすたび、蝋燭の火がわずかに揺らぎ、部屋の中に長く伸びたエラの影もまた、不安定に揺れ動いていた。
カリナはまだ湯浴みから戻ってこない。使用人たちの足音も遠ざかり、この瞬間だけが、まるで世界から切り離されたように、静寂に包まれていた。
震える手で小瓶を取り出す。
ガラス越しに揺れる液体が、まるでエラの心そのもののように、不穏な光を宿している。
「ロザリエ……」
呟いた声には、怒りと憎悪、そして何よりも痛みが混じっていた。
(あの女は……私の気持ちを知っていたのよ。知っていて、レアン様の前で、あんな風に微笑んで、言葉を交わして……!)
ふつふつと湧き上がる感情が、理性をかき消していく。レアンがロザリエに向ける視線の熱。
ロザリエがその視線を当然のように受け止める仕草。そして、自分には〝シュトランド嬢〟としか呼びかけない冷たい現実。
(全部、壊してやる……)
ふと、視線が毒の製法が記された手紙に移った。
“この手紙は、決して他人に見られぬよう厳重に扱うこと。
取り扱いに失敗すれば、貴族としての名誉は愚か、命をも落としかねない。
慎重にそして確実に。”
ゲラルド・オーディットの署名が、まるで不気味な呪詛のように睨みつけてくる。
エラは喉を鳴らし、意を決したように小瓶を胸元の内ポケットへとしまい込んだ。
(……大丈夫。カリナ様がこの毒をどう使うつもりだったかなんて、知らないし、知る必要もない………でも、もし私がこれを使って……)
その瞬間、ロザリエのあの高慢な微笑が脳裏に浮かぶ。
————部屋に戻れば“たくさん”ありますから。いつも仲良くしてくださるお礼よ。
その言葉が、音を立ててエラの理性を切り裂いた。
(これを……使って……)
震える手が、そっと棚の扉を閉じる。
(使った後は……元に戻せばいい。何もなかったかのように。あの棚の中に戻せば、私じゃない。あの毒を作ったのは、オーディット伯爵家。私は〝見つけてしまっただけ〟)
盗み出したその手に、微かな重みが残る。
(そうよ……私じゃない。私じゃないのよ……)
自分に言い聞かせるように、何度もその言葉を繰り返した。やがて扉の向こうから、カリナの足音が聞こえてくる。
エラは何食わぬ顔で立ち上がり、内ポケットに忍ばせた毒の重さを感じながら、そっとカーテンを閉じた。
その目には、もうもう戻れない何かが宿っていた。