08 何もかも上手くいかない
午後の陽射しがやわらかに差し込む中庭には、風に揺れる木々の葉擦れと鳥のさえずりだけが響いていた。ベンチに腰かけるロザリエと、その隣に控えるように座るエラ。二人はこうして、最近はよく中庭で過ごしていた。……いや、過ごすように〝していた〟と言うべきか。
「この本、面白いのよ。少し物語が重たいけれど、文章が丁寧で好きなの」
そう言ってロザリエが持っていたのは、厚手の革表紙に金の箔押しが施された古典文学の一冊だった。彼女はしなやかな指でページをめくり、エラに見せるように一節を指差す。
「ここ、読んでみて。人物の心の揺れが繊細で……」
ふと、ロザリエが本を開いた拍子に、一枚の花が栞のように挟まっていたのが目に留まった。くったりと乾いた花弁は、淡い菫色。エラはその色に、思わず息を呑む。
「……レペグリア?」
ぽろりと出た自分の言葉に、エラは心臓が跳ねるのを感じた。こんなこと、気付いてしまわなければよかった。言わなければよかった。けれど、既に言葉は飛び出していた。
ロザリエは小さく微笑みながら頷いた。
「ええ。先日、レアン様にお花を頂いたから、押し花にして栞にしてみたの」
軽やかに、何でもないことのように言うロザリエの声。従者に作らせたのだけれど、なかなか上手よね、だなんて笑うロザリエに返事を返せる余裕などなかった。エラの腹の底で黒い感情が音を立てて渦を巻いた。
(レアン様が……この女に、レペグリアの花を……?)
その花が何を意味するのか、エラも知っている。家紋の花を贈るということは――それは求愛の証。しかも、レペグリアはオーディット家の紋章の花であり、カリナの家の象徴でもある。それをロザリエが、こうも無造作に「栞にした」と言う。
(どういうつもりなのよ……私がレアン様の事を好きだって、知ってるくせに……!)
腹の底から黒い熱が、泥のように沸き立った。
目の前の女が何気なく手にしている押し花。軽やかに語ったその花の出自が、エラの胸を容赦なく刺し貫く。
なのに、ロザリエは何事もなかったかのように笑う。まるでレアンの想いなど、風に舞う花びらの一枚程度の価値しかないとでも言いたげな、余裕の笑みで。
自分の胸の内を見透かされるのではないかと恐れながら、エラは微笑みを作った。とにかく、崩れてはいけない。ロザリエの前で本心など見せられるものか。
「よければ、エラ嬢にも差し上げるわ」
ロザリエが、さらりとそう言った。もう一枚のレペグリアの押し花を手に取る。
「本、お好きでしょう? よく読んでいらっしゃるから」
エラは凍りついたように硬直した。
「え、でも……そんな、ロザリエ様の大切な……」
慌てて辞退しかけるが、ロザリエは柔らかく首を振り、ふんわりと微笑んだ。
「お気になさらないで。部屋に戻れば〝たくさん〟ありますから。いつも仲良くしてくださるお礼よ」
〝たくさんありますから〟
それはつまり、レアンが贈った花束は一輪や二輪ではなかったということ。それどころか、花瓶に入りきらないほどの大きな愛情を、彼はロザリエに向けて惜しみなく注いでいるというのか。
(……冗談じゃない)
胸が、内側から焼けるように熱くなった。言葉に出せない怒りと悔しさで、顔の筋肉が引き攣りそうになる。
(ふざけないで……!私の方が先だった。私の方が、ずっと前から……)
嫉妬、怒り、羞恥。ぐちゃぐちゃになった感情がエラの胸の内で暴れ回る。それでもエラは、笑顔を崩さなかった。
……崩してはいけなかった。
「……ありがとうございます。嬉しいですわ」
かろうじて搾り出した声は、自分でも引き攣っているとわかる程だった。震える指で、ロザリエが差し出した押し花を受け取る。
その瞬間、エラは心に誓った。
───絶対に、この女を引きずり下ろしてやる。
(やっぱり、カリナ様の言った通り。あの女は悪女だわ)
苛立ちを隠す余裕もなく、エラは早足で中庭脇の石畳を歩いていた。ポケットの中のレペグリアの栞が、まるで嘲笑うようにこすれて鳴る。
その時、ふと前方に二人の人影が目に入った。
赤毛に蜂蜜色の瞳。ひとりは、間違いなくカリナ・オーディット。そしてその向かいに立つ背の高い男も、すぐにわかった。レアン・オーディット。
エラは思わず足を止め、柱の陰に身を寄せた。
いつものように朗らかに振る舞うカリナとは、様子がまるで違っていた。怒っている……けれど、声を荒げることもなく、ただ静かに、冷たい声で。
「……どうして、そんなにまでしてあの女の肩を持つの?」
レアンの声もまた静かだったが、その言葉の端々には確かな苛立ちが滲んでいた。
「……肩を持つとか、そういうことじゃない。僕は、ただ、彼女はお前が思っているような酷い人じゃ……」
「〝彼女〟?ロザリエ様のこと?本当に気でも違ったのね、お兄様」
カリナは怒りを噛み殺すように背を向け、その場から去っていった。残されたレアンは、何かを噛みしめるように小さく吐息を漏らし、肩を落として項垂れていた。
(……一体、何があったの?)
物陰から覗いていたエラは、レアンの落胆した横顔を見つめながら、躊躇いがちに一歩、また一歩と近付いていった。
心臓が高鳴る。こんな形で話しかけてよいものか、とためらいながらも、ほんの少しの下心と期待が、彼女の足を押していた。
心の奥に渦巻いていた黒い感情は、今は影を潜めていた。ただ、彼の沈んだ横顔に、言葉をかけたかった。
「あの……レアン様」
そっと声をかけると、レアンはゆっくり顔を上げた。一瞬、目を細めた彼の表情に「誰だ?」という戸惑いが滲んだ。
エラはひどく心臓が跳ねた。
(やっぱり、覚えられてない……)
しかしそのあと、彼は思い出したように小さく目を見開いた。
「ああ。君は……シュトランド嬢だったか。ロザリエお嬢様と、よく一緒にいる子だな」
その言葉に、胸の奥がきゅうと痛んだ。
(私のことは〝シュトランド嬢〟なのに、ロザリエ様は〝ロザリエお嬢様〟……?)
ささやかな違い。けれど、それは明確な〝差〟だった。
レアンの目に、己がどう映っているのか————その現実を突きつけられたようだった。
言葉が出ないまま俯いたエラに、レアンがふと立ち上がる。
「ちょうどよかった。君と話したいことがあったんだ。……良ければ、少しだけ時間をもらえるか?」
彼のまなざしは真剣だった。
その視線を向けられただけで、胸の鼓動が跳ね上がる。
(……やっと、私にも)
レアン様に必要とされる瞬間が来たのかもしれない。そう思ってしまった自分が、ほんの少しだけ情けなかった。
けれど、嬉しかった。
「……はい。よろこんで」
エラは小さく頷き、レアンの隣に歩み寄った。
レアンに導かれるようにして入ったのは、学園の西翼にある来賓用のサロンだった。普段、生徒が立ち入ることなどないこの場所には、重厚な木製の扉と、陽を吸い込んだ深紅の絨毯、艶やかな銀器と香り立つ茶の準備が整えられていた。
エラは内心、心臓が壊れそうだった。椅子を引いてくれたレアンの所作ひとつにも、無意識に頬が熱くなる。
彼の手がほんの一瞬、自分の肩に触れた————それだけで、浮足立ってしまうのだ。
けれど、テーブルを挟んでレアンが向かい合った瞬間、彼の目には一片の甘さもなかった。その蜂蜜色の瞳はどこか焦燥を帯びていて、まるで何かに縋るような必死さがあった。
「……突然すまない。君に頼みたいことがあるんだ」
「……は、はいっ」
喉が乾く。けれど、震える声で何とか返すと、レアンはひと呼吸置いて口を開いた。
「ロザリエお嬢様のことだ」
……え?
エラの心臓が、変な音を立てた。茶の香りが急に薄れ、目の前のテーブルが遠く霞んだような気がした。表情を強張らせたエラに、レアンは困惑した表情を浮かべる。
「君は彼女と親しくしているだろう?」
「……あ……えぇ、まぁ」
頷くのが精一杯だった。喉元に硬い石でも詰まっているようだった。
レアンはそこで初めて、安堵のような息を吐いた。
「そうか、よかった……実は、最近どうにもロザリエお嬢様のことが、気になって仕方ないんだ」
その言葉が刃のように突き刺さる。
「もっと知りたい。彼女の好きなもの、趣味、どんな話をしているのか……何でもいい。教えてほしいんだ」
湯気の立つカップに口をつける余裕など、エラにはなかった。向かいに座るレアンの視線が、まっすぐロザリエを追っていると分かるたび、喉の奥がきつく締まる。
「この前は……そう、レペグリアの花束を贈ったのだが」
ふと、蜂蜜色の瞳がエラに向けられた。期待にきらめくその視線に、エラは反射的に姿勢を正した。胸が微かに高鳴る。
「ロザリエお嬢様は……その、宝石の類は好きだろうか?」
その瞬間、エラの胸中に湧き上がったのは、喜びでも、驚きでもなかった。むしろ、まるで心臓に棘が刺さったような感覚。鋭く、冷たく、痛かった。
どうして。どうしてレアン様の口から出る名が、〝ロザリエお嬢様〟なの。
私のことは〝君〟とか〝シュトランド嬢〟なのに。彼女だけは〝ロザリエお嬢様〟と呼ばれる。まるで、彼の中で特別な存在として確立されているみたいに。
「そ、その……宝石、ですか?」
震える声を抑えながら、エラは問い返す。レアンは頷き、珍しく口元にほころびを見せた。
「お嬢様の瞳は、夜の湖面に月の光が落ちたように美しい……だからこそ、それに見合う贈り物をしたいと思って」
(見合う贈り物ですって……?)
怒りと哀しみが一緒くたになり、喉元が焼けつくようだった。まるで宝石のように、とでも言うつもりなのだろうか。
「で、でも……ロザリエお嬢様は、あまりそういった煌びやかな物に執着される方ではないかと……」
かろうじて声に出せたその言葉に、レアンは「なるほど」と小さく頷き、少しだけ思案顔を見せた。
「やはり……そうなのか。いや、確かに、お嬢様の優雅さは装飾に頼らぬものだ。身につける物ひとつにしても……」
もう、もうやめて。
エラは自分でも知らぬ間に、爪が拳に食い込んでいるのを感じた。それでも表情は崩せない。レアンがロザリエの〝全て〟に惹かれているのが、痛いほど伝わってくるからこそ。
「……もし君がロザリエお嬢様に合いそうな贈り物を思いついたら、ぜひ教えてくれないか。僕は、あの方のことを、もっと知りたくて」
そう告げるレアンの瞳は、まっすぐロザリエを見つめていた。ここにいないはずの彼女を、想うように。
(どうして……)
胸の奥に、何かがぽたりと落ちる音がした。エラの唇に浮かぶ笑みは、どこまでも凍っていた。
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