06 運命の王子様
鏡を見るたび、いつも思う。
なんて、ぱっとしない顔なのだろう。
栗色の髪はきちんと結い上げてもすぐにうねり、くせ毛のせいで後れ毛がふわりと浮いてしまう。何度ブラシをかけても整い切らないそれは、流行のきっちりとした髪型にはまるで似合わなかった。
鼻の上には、春先に増えたそばかすがまだ薄く残っている。色白な肌に点々と浮かぶそれを、粉で誤魔化しても完全には隠せない。目元も口元も、どこかぼんやりとしていて、鏡の中の自分は華やかな令嬢たちの中に立つには、あまりにも地味だった。
まさに、平凡。
学園の中で浮くこともない。目立つこともない。ただ、その他大勢の一人として毎日を送る。
だけど。
それでも、エラは夢見ていた。
例えば、お伽話のような出会い。誰かが自分の手を取って、「君は美しい」と言ってくれる、そんな夢のような恋。自分には不釣り合いだとわかっていても。こんな私でも、たった一度でいい。心から誰かを想い、胸をときめかせる恋をしてみたい。
それが、〝あの日〟までのエラだった。
日が傾き始めた図書室。静かなその空間に、エラは一人、読書をするためにやってきた。棚を巡り、ふと背伸びをして手を伸ばしたのは、背の高い棚の最上段。読みたかった詩集が、指先すれすれの場所にあった。
……届かない。
つま先を立て、腕をいっぱいに伸ばす。だが、かすかに指が触れるだけで、本を引き出すことはできなかった。
その時、不意に横からすっと、誰かの手が伸びた。
「どれだ?」
背後から低く短い声がして、彼女ははっとして振り返った。
そこにいたのは、見知らぬ青年。燃えるような赤銅の髪が窓辺の光を浴びて、まるで陽炎のように揺れている。蜂蜜色の瞳は鋭く、それでいてどこか憂いを帯びていて、思わず息を呑んだ。
「え、えっと……」
エラの視線を辿るように、彼は何も言わずすっと手を伸ばし、高い位置の本を軽々と取り出した。
「これだろ」
そう言って手渡された本を、両手で受け取る。
「ありがとうございます……!」
お礼を言ったときには、もう彼は背を向けて歩き出していた。名前も、学年も、何も知らない。ただ、確かにそこにいた。
(物語の、王子様……)
エラはしばらくその場から動けなかった。早鐘のように鳴る心臓。燃えるような髪と、蜜のような眼差し。無口で無愛想なのに、手を差し伸べてくれたあの人。まるで、おとぎ話の中から抜け出してきたようだった。
知らなかった。こんな風に、胸が熱くなるなんて。
後から知った事だったが、あの図書室で本を取ってくれた無愛想ながらも優しい〝王子様〟の名前は、レアン・オーディット。
この学園の最上級生で、落ち着いた物腰と研ぎ澄まされた容姿に、首席の成績を収める優秀さから、憧れの対象として名を馳せる存在だった。そして彼は、エラの同室であり、クラスの中心人物である令嬢、カリナ・オーディットの実の兄でもあった。
堂々とした立ち姿に、洗練された言葉遣い。誰の目にも高貴で、魅力的で、完璧な理想を体現したような存在。そんな彼とほんの一瞬だけ、言葉を交わした。あの瞬間のきらめきは、今でも忘れられなかった。
けれど、だからといって。
私なんかが、覚えられているわけない。
誰かの目を引くような麗しい容姿などしておらず、背も高くなければ、カリナやロザリエのように美しい体型でもない。声も通らない。趣味は地味で、話題に入るのがいつも遅れる。そんな平凡の塊のような自分が、あの時の偶然の一件で、誰かの記憶に鮮やかに残るわけがなかった。
それに、同室とはいえ、カリナ・オーディットは別世界の人間だった。
燃えるような赤毛に、兄と同じ蜂蜜色の瞳。その整った顔立ちはどこか妖精のようにすら思え、優雅に笑えば周囲は花が咲いたかのようにざわめいていた。
もちろん、話すことはほとんどなかった。いや、話しかける勇気がなかったのだ。学園の人気者が、自分のような冴えない少女に興味を持ってくれるはずがないと、心のどこかで決めつけていた。
あの日から、二年の月日が経った。
胸に秘めた淡い想いは、誰にも打ち明けられないまま、エラの中で静かに息を潜め続けていた。
彼は学園を卒業し、エラ自身はいつの間にか、最上級生の立場になっていた。もう、彼とは二度と会えることはないだろうと、そんな風に思っていた。
その日も、変わり映えのない日だった。ただ一つ違ったのは、普段なら近づくことさえ躊躇してしまうカリナを、自ら探していたことだ。伝達事項があり、仕方なく声をかけようと決意したのだった。
しかし自室はもぬけの殻で、香水の残り香だけがほんのりと空間に漂っている。エラは躊躇いながらも、廊下ですれ違った生徒たちに声をかけ、カリナの居場所を尋ねた。
中庭で見たという情報を頼りに、エラは急足でそこへと向かった。用件だけを伝えたらすぐ戻ろう。それだけを考えながら、秋の木漏れ日が落ちる小道を通り抜ける。
そして、見たのだ。
中庭の大理石のベンチに、あの鮮やかな赤髪が揺れていた。
カリナの隣に座るのは、間違いなく、レアン・オーディットその人だった。
まるで時を遡ったかのように、二年前と何も変わらない風貌で。変わったのは、彼がもう学園の生徒ではないということと、自分が再会の準備をしていなかったということだった。
言葉をかけるタイミングを何度も探しては、胸の奥で呟くだけで終わってしまう。中庭の片隅で立ちすくむエラの指先は、落ち着きなくスカートの裾を摘まんでは放し、摘まんでは放していた。
その姿に先に気づいたのは、カリナだった。
「……あら? エラ嬢。どうかしたのですか?」
澄んだ蜂蜜色の瞳が、こちらに向けられる。赤毛が陽の光を受けて煌めき、その一挙手一投足に人の視線を集める彼女。学園でも指折りの令嬢であるカリナ・オーディットは、完璧な優雅さでそう声をかけた。
————しまった、声をかけられる前に近付こうとしていたのに。
内心の狼狽を隠すように、エラは頭を下げかけた。けれどその直後、隣にいた男性が視線をこちらへ向けたのを感じた。
「その令嬢は?」
低く、よく通る声。ぶっきらぼうでありながら、不思議と耳に残る。
カリナがすぐに笑みを向ける。
「エラ・シュトランド子爵令嬢です。クラスは違うのですが、同室なのですよ」
その紹介に、彼はゆっくりと立ち上がった。秋の陽を背に受け、燃えるような赤毛が風に揺れる。まるで絵画から抜け出してきたような、整った顔立ちに、蜂蜜色の瞳。
「いつも妹がお世話になっています。レアン・オーディットと申します」
エラは、呼吸するのも忘れそうになった。
その名を、何度夢の中で呼んだだろう。何度、記憶の中で思い返しただろう。
図書室で、本を手渡してくれたあの日の横顔。あれから二年もの月日が経っていたというのに、胸の奥は変わらず、あの時のままだった。
(……夢みたい)
こんなふうに、名前を名乗られて。まっすぐ見つめられて。
まるでお伽話の世界に迷い込んだかのように、エラの足元から、現実の地面が音もなく崩れていくような錯覚を覚えた。
声を出そうとしても、喉が詰まったようにうまく言葉が出てこない。それでも、かすかに唇を開いて、かろうじて名乗った。
「え、エラ・シュトランド、です。あ、いえ、こちらこそ……いつもご令妹には、お世話になって……」
声が裏返りそうになるのを必死に抑えて、エラはどうにか礼を述べた。顔は火が出そうなほど熱い。視線はレアンの顔に向けたくてもまともに見られず、胸元のリボンを見つめていた。
言葉の端々はぎこちなく、語尾も不安定で、余計な敬語が混ざっていた。それでも彼女は、目の前の〝夢〟のような青年の前で、どうにか立っているのが精一杯だった。
そんなエラの様子を、カリナは隣で静かに見つめていた。
その表情は優しげに見えて、どこか冷めた瞳。
唇の端が、ほんのわずかに持ち上がる。
けれどエラはそれに気づかない。
胸いっぱいの鼓動の中で、自分の声が震えていたことばかりに意識が向いていた。
(やだ、きっと変に思われた……でも、名前……名乗ってくれた。ちゃんと目を見て)
そんなふうに、内心でぐるぐると思考を巡らせるエラの肩のあたりを、そっと風が撫でる。
その一瞬の沈黙のあと、レアンは「ああ」と小さく頷き、どこか居心地の悪そうな仕草で視線を逸らした。
「……それじゃ、僕はそろそろ行くよ。カリナ、またな」
「はい。お兄様もお身体にはお気をつけて」
そうして、レアンはあっさりと踵を返し、その場を去っていった。彼の背を見送りながら、エラはまだ夢の中にいるような心地だった。
レアンの背中が見えなくなるまで、エラは茫然と見送っていた。足は地面に根を張ったように動かず、胸の奥はまだ熱を帯びたまま、夢心地の中にいた。
……まさか、あのレアン様と言葉を交わせる日が来るなんて。
蜂蜜色の瞳が自分に向けられたこと。「いつも妹がお世話になっています」と丁寧に名乗られたこと。まるでおとぎ話の一幕にでも迷い込んだかのようで……
エラは頬を染め、胸元に両手を当てながら、ふわりと息を吐いた。
「エラ嬢」
現実へと引き戻したのは、優しく響いたカリナの声だった。夢から覚めたように瞬きをすると、隣にいたカリナがこちらを見て、にこりと微笑んでいた。
「えっ、あ、は、はい……っ?」
自分がどれほど間の抜けた声を出したかに気付き、思わず口元を押さえる。カリナはその様子に小さく笑って、まるで妹を諭す姉のように柔らかく囁いた。
「お兄様に恋しているのね、エラ嬢」
「えっ……!?そ、そんな、私なんかが…!」
エラは慌てて手を振り、首を横に振った。けれど、言い訳の言葉が喉につかえて出てこない。自分でも、己の挙動が〝それ〟を裏付けていることを痛いほどわかっていた。
「ふふ、隠さなくていいのですよ。私は貴方を責めているわけではありませんから」
カリナは、やわらかな笑みを浮かべたまま言う。優しい。けれど、その微笑みにどこか含みがあることを、エラの胸は直感していた。なのに、抗えない。
「……お兄様と、もっと親しくなりたいと思いませんか?」
その囁きは、蜜のように甘く、誘惑の香りがした。
「エラ嬢は、誠実で控えめで、人の話をちゃんと聞いてくれる。私、そんな貴方を信頼しています。だからこそ、お願いしたいのです」
カリナの声音は、まるで一輪の花びらが舞い落ちるように柔らかかった。だが、その微笑にはどこか、底知れぬ光があった。
「……お願い、というのは……?」
声を絞るように尋ねたエラに、カリナは微笑んだまま、まるで戯れごとのように言った。
「ロザリエ・ジークベルト様と、仲良くなってほしいのです」
「……ロザリエ様……ですか?」
ロザリエ・ジークベルト公爵令嬢。未来の王妃であり、リチャード王太子殿下の婚約者。しかし〝悪女〟として有名で、カリナはまさにそんなロザリエから被害を受ける張本人。何故、自分にロザリエと仲良くなるよう指示したのか。ロザリエの名前が出た瞬間、エラの胸に微かな違和感が生まれた。
「ええ。あなたとなら、自然に親しくなれると思ったの」
「私が、そんな……」
口籠るエラに、カリナは優しい声色のまま、さらりと続けた。
「あの方、私の事を嫌っているようで……」
「……え?」
「どうしてか分からないのだけれど……ですから、ロザリエ様の周囲でさまざまな噂が立ってしまって……お兄様まで、巻き込まれるのが心配なの」
お兄様。レアン様。
その一言に、エラの心が再び揺れた。
「だから、あなたにお願いしたいのです。ロザリエ様と親しくなって、信用されたその瞬間。〝あの悪評を流しているのは、実はカリナ様だった〟と、伝えてほしいの」
エラは思わず息を呑んだ。
まさか、こんな優雅で気品ある少女の口から、そんな言葉が出てくるとは思ってもいなかった。
「あの、なぜ……そんなことを……?」
エラの声には、困惑と畏怖が滲んでいた。だがカリナは動じない。まるでそれが当然のことであるかのように、ふんわりとした声で告げる。
「そうすれば、あの方はきっと人目も憚らず、取り乱すでしょう?」
その声音は、まるで春の陽だまりのように柔らかかった。けれど、エラには、それが底の見えない冷たさを孕んでいると分かっていた。
思わず後ずさりそうになる。だが、その時、カリナはまるで慈しむような声色でエラの肩に手を置いて耳元で囁いた。
「もし全てが上手くいった暁には……エラ嬢の〝想い〟を、叶えて差し上げます」
「えっ…?」
「私が、お兄様とエラ嬢の仲を取り持ちます。如何かしら?」
それは、今まで夢に見ることしか許されなかった、甘やかな幻想。
平凡で、何の取り柄もない自分ではたどり着けないと思っていた未来が、今、目の前にぶら下げられている。
彼の隣に立てるのなら……
たとえ、誰かを傷つけたとしても。
「私に、できることがあるなら」
静かに、けれどはっきりと頷いたその瞬間から、エラ・シュトランドの運命は、ゆっくりと狂い始めていた。
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