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50 秘密の開示

「お、落とさないでくださいね……!」


 ロザリエは思わず声を上げた。足元に地面はなく、風がドレスの裾を揺らしている。彼女の体は宙に浮かび、ルーデリウスの腕にしっかりと支えられていた。


「大丈夫です。僕の体に触れている限り、落ちたりしませんから」


 落ち着いた声で囁くように言いながら、ルーデリウスは彼女の腰をそっと抱き直す。そのぬくもりと、彼の魔力に包まれるような感覚が、不安を静かに和らげていく。

 空は澄んだ青で、雲がゆっくりと流れている。下界の街並みがまるで箱庭のように遠くなっていくなか、ロザリエは目を見張った。


「魔法は凄いですね……空まで飛べるだなんて」


 ロザリエは感嘆の声を漏らしながら、ルーデリウスの体にぎゅっとしがみついた。風に揺れる銀の髪が頬をかすめ、彼女の吐息が首筋にかかる。密着した柔らかな感触と、無防備すぎる距離に、ルーデリウスはわずかに眉を動かしたが————その表情は決して崩さない。


(……この距離は、思った以上に危険だ)


 冷静さを装いながらも、彼の内心は決して穏やかではなかった。呼吸ひとつすら乱せない。彼女に気取られぬよう、胸の高鳴りを無理やり抑え込む。


「……では、あそこに降りましょうか」


 努めて平静な声でそう言うと、ルーデリウスは緩やかに進路を変えた。彼の視線の先には、月明かりに照らされた王宮の屋根が広がっている。白い石造りの屋根瓦が陽光を反射して淡く輝き、そこに降り立つふたりの姿がまるで幻想のようだった。


 やがて、風がふわりと和らぎ、ルーデリウスの足が音もなく屋根の縁に触れる。彼はロザリエの腰をしっかりと支えたまま、静かに着地した。


「足元にお気をつけて」

「ありがとうございます」


 地上とは違う、高い場所から見下ろす景色。

 遥か下に広がる王都の灯りは、まるで星を散りばめたように瞬いている。風は穏やかで、夜空は澄みわたり、満月がふたりの影をやわらかく照らしていた。


「……綺麗」


 ぽつりと零れたロザリエの声は、誰に聞かせるでもなく、ただ自然と唇からこぼれたものだった。

 生きている。この空の下に、自分は確かに存在している。


 少し前までの自分の世界は灰色だった。孤独で、疑心に満ちていて、誰にも信じられず、誰からも信じてもらえなかった。


 けれど、今は。


「……今、生きているこの瞬間が、奇跡のように思えます」


 胸に溢れる感情を、言葉にしてロザリエは囁いた。

 隣に立つルーデリウスは、それに何も返さない。ただ、彼の金の髪が風にゆるやかに揺れている。


 ロザリエはその横顔を、そっと見つめた。


 整った輪郭に、柔らかく伏せられた睫毛。月明かりを浴びる彼の横顔は、どこかこの世のものではないように、儚く、美しかった。

 その視線に気づいたのだろう。


 ルーデリウスはふいに顔をこちらに向けたが、すぐに目を逸らして、小さく咳ばらいをした。


「あの……どうかされましたか?」


 その声には、いつになく戸惑いが混じっている。いつも冷静で、無表情すら装える彼が、今はほんのわずかに頬を赤らめているようにも見えた。


「いえ……少し、今までのことを思い出していました……」


 ロザリエがぽつりと呟くと、隣に立つルーデリウスは、少し身を乗り出すようにして尋ねた。


「今までのこと……?」

「はい」


 彼女はなぜか急に神妙な顔になり、ぐっとルーデリウスの顔を見上げた。そして、次の瞬間。


「私……今まで、王太子殿下を呼び捨てで呼び、こき使っていたのだと思うと……」

「へっ?」

「朝から晩まであれこれ指示して、お茶汲みやら書類運びやら、殿下に諜報活動を命じたり……」

「い、いや、それは僕が————」

「……あの、無礼をお許しください、殿下…!」


 ロザリエが顔を青ざめさせ、申し訳なさそうに謝罪をする姿に、ルーデリウスは慌てて声を上げた。


「き、気にしないでください!」


 彼にしては珍しい、やや裏返った声。ロザリエが目を瞬かせると、彼は慌てたように言葉を継ぐ。


「正体を隠していたのですから、それは……仕方のないことですよ」


 真面目な口調で取り繕いながらも、その頬には微かに朱が差していた。


「……どうか、今までのように接していただけませんか?」


 静かに、けれどどこか切実な響きを帯びた声だった。


 ルーデリウスは、ゆるやかに風の吹く屋根の上で、ロザリエの顔をそっと覗き込むようにして言葉をかけた。その目は真っ直ぐで、しかしどこか不安げな色も帯びている。


 正体を明かした今、彼女の中で自分との関係性が揺らいでしまうのではないか、そんな懸念が、ルーデリウスの胸のどこかを占めていた。


「……そ、それは……」


 ロザリエは困ったように眉を下げ、小さく唇を噛んだ。気まずそうに視線を泳がせながら、やがて覚悟を決めたように顔を上げる。


「ぜ、善処します……ルーデリウス、様」


 ————様、がついている。

 一瞬の沈黙。そして、思わずルーデリウスは、ふっと肩を揺らして小さく笑った。


「……時間がかかりそうですね」


 その苦笑には、どこか呆れと愛しさが混じっていた。

 ロザリエは耳まで真っ赤にしてうつむいてしまったが、ルーデリウスはその様子を咎めるでもなく、ただ優しく風景に視線を戻す。

 夜の街は、変わらずに光を灯していた。変わらないものが、こんなにも愛おしく感じるのは、きっと変わった自分がそこにいるからなのだろう。


「……気が向いたときで構いませんよ。僕はデリウスとして扱われるのも、嫌いじゃありませんから」


 そう言った彼の横顔は、どこか懐かしさを湛えた穏やかさをしていた。


 そんな彼の表情につい見惚れながらも、ロザリエは慌てて視線を逸らし、王都の街を見下ろした。回帰前は今頃、冷たい牢屋の中で膝を抱えて絶望していただろう。でも、今は。

 ロザリエの頭の中に回帰前の記憶が蘇る。


(……話すべき、よね)


 夕暮れの学園の回廊。

 デリウスを愚かにも怪しんでいた自分も、思い出したのだ。こんなにも自分を信じてくれる彼に、回帰のことも、自分の思惑も、何も話していなかった事を。

 デリウスには、金輪際何も聞かない。でも、いつか話してほしい。そうしたら、自分も話そう。そう心に決めていた。


 デリウスの秘密、とは、恐らく己の身分が王太子であったという事なのだろう。彼の秘密が明らかになった今、自分も、回帰のことを話さなくては。


「……ルーデリウス様」


 意識して丁寧な呼び方をした自分に、少しだけ胸が痛む。だが、目を逸らすことはしなかった。

 呼びかけられたルーデリウスは、初めは何気ない表情で振り返った。けれどすぐに、ロザリエの瞳に宿る真剣な光に気づき、彼の表情がわずかに引き締まる。


「以前……」


 ロザリエは言葉を紡ぐように口を開く。まっすぐに彼の目を見つめながら。


「以前、聞いたことがありましたね。あなたは私に、隠し事をしているのではないかと」


 その言葉を聞いた瞬間だった。


 ルーデリウスの肩がぴくりと震えた。まるで心の奥底を唐突に突かれたかのように、彼の動きが一瞬だけ止まる。


「……っ」


 言葉を飲み込んだのだろうか。彼の喉が、ほんのかすかに動いた。

 普段はどれほど冷静でも、この時ばかりはごまかすことはできなかった。真実を抱えて生きてきた人間ならではの、無意識の反応だった。


「そうですね。……全てを、話す時が来たようです」


 月明かりに照らされた屋根の上、ルーデリウスは静かに、しかし確かな声でそう言った。


 その言葉に、ロザリエの心はざわついた。思いもよらぬ答えだった。


(全てを……?)


 彼の隠し事とは、王太子でありながら自分の前ではデリウスと名乗り、従者として仕えていた……そのことだけではなかったのか。彼が今から語ろうとしているのは、まだ別の何か————その表情の深さと、わずかに伏せた瞳が、それを物語っている。


(まだ……他にも何か隠していたのね)


 不安とも緊張ともつかない思いが、ロザリエの胸にじわじわと広がる。体が自然と構えのような緊張を帯びるのを感じながら、彼の言葉の続きを待った。


「僕は……」


 ルーデリウスが口を開いた。


「その、幼い頃から……ずっと……貴方に……恋焦がれておりました……」


 時が止まったような感覚だった。


「…………」


 ロザリエは瞬きすら忘れ、ただ彼を見つめたまま、固まった。


 意味を理解するのに、数秒かかった。

それほどまでに、彼の告白は予想外のものだった。


 身分でも、陰謀でも、ましてや危険な政略の話でもない。それらを遥かに飛び越えた、ある意味、最も重くて、最も個人的な想いの告白だった。


 月の光に照らされながらも、ルーデリウスの顔が真っ赤に染まっているのが分かる。肌の白さゆえに余計に際立つその赤みは、火照りではなく、羞恥と、そして長年の想いをようやく口に出した者の、決死の覚悟の証だった。


「…………え?」


 ようやく口を開いたロザリエの声は、まるで霧の中で迷子になった子どものように、心もとなかった。


「こ、こい……?」


 思わず呟いてしまった自分の声に、ロザリエはすぐ頬を熱くした。


 ルーデリウスは、視線を逸らすどころか、それでもまっすぐに彼女を見ていた。揺れる金の髪が夜風に舞い、ほんの少しだけ唇が震えているのが分かる。


「……ですから、その……もしも、御迷惑でしたら、今のは……忘れていただいても……構いません……」


 声は小さく、震えていた。けれど、言葉の一つひとつには誠実さが滲み出ていて、ごまかすような軽さなどどこにもなかった。

 ロザリエは何も言えなかった。胸が詰まるようで、息を飲むたびに喉が苦しかった。


「め、迷惑だなんて、そんな……」


 声が震えていた。けれど、逃げてはいなかった。


 ロザリエは、自分でもどうしようもないほど熱くなっていく頬を、思わず両手で包み込んだ。指先が触れた肌は、熱を帯びていて、夜風に触れてもその火照りは冷める気配を見せなかった。


(こ、こんなふうに、告白されるなんて……)


 しかも、それがルーデリウスから。


 長い沈黙のあとで、ようやく絞り出すように言葉がこぼれた。


「う、嬉しい……です」


 とても小さな声だった。けれどその言葉は、確かに夜の空に溶けることなく、ルーデリウスの胸に届いた。


 一瞬、風がぴたりと止んだかのようだった。


 ルーデリウスの目が、大きく見開かれる。月の光をその瞳がとらえ、かすかに揺れる。まるでその一言が、彼の中の何かを大きく動かしたかのようだった。


「……本当に?」


 信じられないように、彼は問い返す。その声には、どこまでも純粋な驚きと、喜びと、ほんの少しの臆さが混じっていた。


 ロザリエは、恥ずかしさで耳の先まで赤くしながら、そっと頷く。手のひらで包まれた頬の奥が、じんじんと熱い。


「……だって……ずっと……私を、見ていてくれたんですよね……?」


 勇気を振り絞ってそう言うと、ルーデリウスの顔に、ゆっくりと、けれど確かな笑みが浮かんだ。


 それは、彼が今まで見せたどんな微笑みとも違った。


 誠実で、不器用で、でもどこまでも優しい————まるで夜空の星のように、静かに輝く笑顔だった。


「……はい。ずっと……です」


 その返答に、ロザリエの胸が、きゅう、と締めつけられた。この人は、本当に……ずっと、自分を想ってくれていたのだ。


 ただの恋ではない。

 憧れでも、気まぐれでもない。

 彼の人生の中で、何年も、何度も胸の中で繰り返されてきた感情。


 それが、今こうして言葉になった。


 ふたりの間を風がやさしく通り抜けていく。屋根の上には、もう言葉にしなくても伝わるような、あたたかい空気が漂っていた。


 夜の帳の中、世界の喧騒から遠く離れたこの場所で、ひとつの恋が、ようやく、触れ合った瞬間だった。







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