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05 餌

 秋の風が、金色の木の葉をさらさらと鳴らした。

 ロザリエは中庭のベンチに腰かけ、開いた本のページにそっと指を置く。陽射しは柔らかく、空気にはひんやりとした乾いた冷たさが混じっていた。季節の移ろいを感じる午後。空の高みにわずかに漂う雲が、静かな時の流れを際立たせている。


 風に揺れる木々の隙間から差し込む光が、本の活字を時折照らした。けれど、ロザリエの視線はそこにとどまってはいなかった。


 本を読んでいるふりをしながら、彼女は中庭に向かう小道を、静かに見張っていた。視線を上げることはない。ただ耳と気配に神経を集中させる。控えめな足音。慎重な歩幅。少女らしく甲高い、けれどどこか演技めいた軽快な鼻歌が近づいてきている。


(……そろそろね)


 ページをめくる手を止めずに、ロザリエは小さく息を吐いた。


 読みかけの本は恋愛小説。胸を焦がすような初恋、涙ぐましいすれ違い、貴族令嬢と平民の青年との身分差の恋。

 回帰前のロザリエなら、絶対に手に取らなかった本だった。かつての彼女が読んでいたのは主に哲学書や歴史書。それが〝悪女〟と呼ばれた彼女の武器であり、学園で生き抜くための知恵だった。

 だが今日は違う。

 これは話題を誘うための仕込みであり、ただの舞台装置に過ぎない。


 まるで本に夢中になっているかのようなふりをしながら、内心では冷ややかに時を待つ。視界の隅に、栗色の髪を揺らしながら歩いてくる令嬢の姿が映った。


「……あっ、私も、それ読んだことがありますわ!」


 明るく弾んだ声が、中庭の静寂を破った。


 本をめくる指を一瞬止めてから、ロザリエはゆっくりと顔を上げた。そこに立っていたのは、エラ・シュトランド子爵令嬢。陽光の下に笑顔を浮かべるその姿は、何も知らない少女のように純粋で、まるで白い花のように無垢に見えた。

 だが、ロザリエの瞳にはそれが仮面にしか映らない。


(来たわね)


 そう心の中で呟き、ロザリエは微笑んだ。


 エラ・シュトランド。回帰前、ロザリエにとっては唯一〝信じられる友人〟だった存在。孤立していたロザリエにただ一人優しくしてくれた令嬢。

 秋の午後、誰もいない中庭で彼女に優しく声をかけられたとき、ロザリエは夢を見ているような心地がした。

 噂に惑わされず、自分の目で人を見てくれる人がこの学園にもいたのだと、心の底から救われる思いだった。

 以来、二人で本を読んだり、お茶を飲んだり。エラは時折気遣わしげにロザリエを見つめ、控えめに微笑んでくれた。誰も信じてくれない中で、エラだけは味方だと思えた。いや、思いたかったのだ。


 だが、あの言葉がすべてを打ち砕いた。


『……ロザリエ様を悲しませたくなくて、今まで黙っていたのですが……ロザリエ様の悪評を流しているのは、カリナ様なのです』


 その告白を聞いたとき、ロザリエは衝撃のあまり言葉を失った。しかし、エラだけは違うと思っていた。こうやって、真実を涙ながらに教えてくれる。ロザリエが傷付くことを恐れて今まで口に出せなかったのだ。なんて優しい人。ロザリエは、エラのことをすっかり信じていた。

 けれど、それすらもカリナの掌の上だったのだ。


 エラはロザリエの信頼を得たうえで、〝最悪の報せ〟を告げる役目を担っていた。

 カリナに命じられて、すべて計算された行動だった。ロザリエが怒りに身を任せ、人目を憚らず取り乱すよう仕向けるための、完璧な罠。

 ロザリエはまんまとその罠にはまり、大勢の生徒たちの前でカリナの頰を叩き、罵詈雑言を浴びせた。この事件の所為で、ロザリエの元々低かった信頼はどん底まで落ちていくのだった。



「あら……エラ・シュトランド子爵令嬢でしたわよね?お隣のクラスだったかしら?」

「ろ、ロザリエ様が私のことを覚えてくださっていただなんて……!とても光栄です!」


 回帰前は貴方のことなんて微塵も知らなかったけどね。


 笑顔の裏で毒を吐きながらもロザリエは完璧に表情を保っていた。


「よろしければどうぞ、ご一緒に」


 ロザリエの誘いに、エラは嬉しそうに目を輝かせて隣に腰を下ろした。ほんのりと紅潮した頬が、日の光に透けて見える。


「えぇっと、私はよく恋愛小説を読むんですけど……ロザリエ様が、こういった本をお読みになるとは少し意外です」


 エラの目が好奇心で輝く。ロザリエは、わざと小さく肩を竦めて見せた。


「ふふ、たまには甘いものを摂取しないと、心が荒んでしまいますもの」

「わかります!私も時々、こう……現実じゃありえないくらいロマンチックな展開が恋しくなってしまって」

「あら、例えば?」


 ロザリエが問い返すと、エラはくすぐったそうに笑った。


「そうですね……突然現れた騎士が、〝貴女のためなら命も差し出せる〟って……そんな風に言ってくれたり」

「ふふ、それはなかなか劇的ですわね」

「本当ですか?この話をすると、子供っぽいっていつも笑われてしまうんです」

「夢を見るのは素敵なことだと思いますよ。現実に疲れたとき、ほんの少し夢を抱けるだけで、心が軽くなることもありますから」

「ロザリエ様……」


 ロザリエの静かで包み込むような言葉に、エラの表情が少し和らぐ。


「私、ロザリエ様とこんな風にゆっくりお話しできて嬉しいです。以前から……すごく気になっていたんですの」

「まあ、私のどんなところが?」

「その……本を読んでいらっしゃる姿とか、とても気品があって。でも決して高慢ではなくて、お一人でいても、孤独を感じさせない……そんな雰囲気が、とても素敵で」


(上手いことを言うわね。でもそれ、カリナに吹き込まれたセリフでしょ?)


 ロザリエはそんな本音を胸に押し込め、ふわりとした笑顔を崩さなかった。


「お褒めいただき、光栄ですわ。けれど、私も普通の女の子ですもの。恋に憧れることもありますし……」


 そこで一拍置いて、ロザリエは軽く首をかしげた。


「ねえ、エラ嬢。エラ嬢にとっての〝理想の殿方〟って、どんな方かしら?」


 ロザリエの唐突な問いかけに、エラはぱちりと瞬きをし、わずかに表情を曇らせた。そして焦ったように両手をバタバタと忙しなく動かし始める。


「わ、私ですか?えっと……まだ、そういう方はいらっしゃいませんわ」


 ————嘘。微妙な間と、視線の泳ぎがそれを物語っている。


(警戒しているのね。まぁ当然かしら)


 ロザリエは、微笑みを崩さぬまま口を開く。


「そう……先ほどの騎士様のお話、まるで誰かを思い浮かべながら話していたように見えましたのに」


 軽やかに追い詰めるような声音に、エラの肩がピクリと揺れる。


「い、いえ、その……そういう物語が好きなだけで」

「ふふ。ならば、聞いても問題ありませんわよね」


 ロザリエはわざとらしく本のページを閉じ、エラの方へと身体を向ける。笑みはやわらかく、けれどその瞳には鋭く射抜くような光が宿っていた。


「名前は伏せてくださっても結構です。ただ、どのような方か、お聞かせ願えますか?」


 そう言われてしまえば、もはやエラにも否定の余地はない。観念したように小さく溜息を吐くと、視線を膝の上へ落とした。


「……そうですね。仮に……仮に、ですけれど」

「ええ、仮に、で構いませんわ」

「その方は、とても凛々しい方です。立ち居振る舞いが綺麗で、たまに見せる優しさがとても……誰にでも優しいのではなくて、必要なときに必要な優しさをくれる方……というか」


 言葉を選びながら語るエラの声は、自然と甘く、熱を帯びていた。ロザリエは心の中でやはり、と確信を得た。


「まぁ、それって、レアン様のことではなくて?」

「えっ……!」


 思わず顔を上げたエラと、ロザリエの視線がぶつかった。

 焦りと羞恥、驚きと戸惑い……幾重もの感情がエラの瞳に浮かんでいる。


 レアン・オーディット。

 オーディット伯爵家の長男にして、現在は王都で騎士見習いとして修行中。顔立ちは端正、背は高く、いかにも貴族令嬢が憧れそうな完璧な容姿と地位を持っている。

 ……だが。


(外面ばかり整って、中身は空っぽの自己愛者。妹の策略にすら気づかず、回帰前の私はその足で踏みつけられた————)


 過去の記憶が一瞬脳裏をよぎるが、ロザリエはそれを微笑みに包んで押し隠した。


「お気持ちはわかりますわ。とてもお美しい方ですものね。きっと、憧れる令嬢も多いのでしょう」

「ロザリエ様……」


 エラは戸惑いながらも、ロザリエの微笑みに安心したのか、頬を赤く染めた。

 回帰前から違和感は感じていたのだ。時々、カリナに会いに学園に訪れるレアン。そんなレアンにエラが熱の籠った視線を送っている様子を幾度か目にした。その頃は他人の惚れた晴れたに全くと言っていいほど興味が持てなかったので無視したのだが。


 今となっては、これこそが。


「……応援しますわ、エラ嬢」


 ロザリエはそう言って、心から嬉しそうな顔で笑った。





♦︎





 オーディット伯爵家の嫡男であるレアン・オーディットは、かつて自らが通っていたこの学園の廊下を、ゆったりとした足取りで歩いていた。秋の気配が色濃くなり始めた午後、石造りの回廊には冷たい風が忍び込み、窓から差し込む陽射しはどこか優しくなっていた。


 目的はただひとつ。妹であるカリナの様子を見ること。近ごろ送られてくる手紙の端々には、ある令嬢の名が頻繁に登場していた。


《学園生活は楽しいです。でも少し疲れやすくて……。それに、ロザリエ様には以前、暴言を吐かれたことも、少しだけ……。いえ、私が悪かったんですけれど……》


(ロザリエ・ジークベルト……)


 ジークベルト公爵家の令嬢。妹がさりげなく記した「暴言」「手を出された」という言葉は、兄であるレアンの中に確かな怒りを灯していた。


(……カリナがそんな目に。噂に違わず、救いようのない女だな)


 カリナの健気な様子を思い出すと、自然と眉間にしわが寄る。


 ————そして、その時。


 目の前から誰かが歩いてきた。

 銀糸のようにきらめく髪。目を引くほど整った顔立ち。華奢な体に学園のローブが揺れている。見惚れるほど美しい、だがどこか冷たい印象を纏うその令嬢。彼女こそ、ロザリエ・ジークベルトその人であった。


(……ふん。確かに、見た目は整っているが……あの目、性格の悪さが滲み出ているな)


 レアンは彼女を一瞥し、視線を外そうとした。そのときだった。

 ふわりと、布が風に舞った。

 ロザリエがすれ違いざまに落とした白いハンカチが、秋風に押されてレアンの足元へと舞い降りる。花の刺繍が施された上等な布だった。 

 面倒だが、物を拾わずに通り過ぎるほど非礼な男でもない。仕方なく、レアンは落ちたハンカチを拾い上げ、ロザリエを呼び止めた。


「……落とされましたよ」


 ぶっきらぼうな声だったが、形式ばった敬語は保った。

 その声に、ロザリエがくるりと振り返る。

 銀の睫毛に覆われたアメジストの瞳がぱちりと見開かれたかと思うと、すぐにその顔に、やわらかな笑みが浮かんだ。


「まあ……ご丁寧にありがとうございます。お優しいのですね」


 淡く頰を染めたその微笑みは、まるで秋の日差しのように穏やかで、思わず息が詰まった。


(……なんだ)


 それまで抱いていた〝悪女〟というイメージが、一瞬で霧のように薄らぐ。

 まっすぐに向けられる瞳。その色の深さに、心が吸い込まれそうになる。


「……あ、あなたの名前は?」


 知っているはずの名前を、咄嗟に問いかけていた。

 ロザリエは小さく瞬きをすると、すぐに涼やかに応える。


「ロザリエ・ジークベルトと申しますわ。…あの、失礼ですけれど……」

「……あ、あぁ、レアン・オーディットです」


 そう名乗った瞬間、ロザリエの瞳がわずかに揺れた。

 彼女はそっと口元に細く白い指を添え、目を伏せる。長い睫毛が影を落とし、その表情がふいに翳る。


「……カリナ嬢のお兄様、でしたのね」


 柔らかく零れたその声は、どこか遠く、寂しげだった。

 つい先ほどまで微笑んでいた彼女の顔からは、色が引き、瞳の奥にほんのりとした悲哀が浮かんでいるように見えた。

 レアンは言葉を失った。彼女の様子は、カリナから聞かされていたような〝高慢で人を見下す悪女〟には到底見えない。


「私……カリナ嬢に、どうしてか嫌われてしまっているみたいなんです。理由は……わかりません。でも、私と関わると、貴方まで……」


 伏せたままの視線、震える声。

 そして、あの笑み。

 あまりにも控えめで、儚げで、まるで拒絶されることを当然と思っているかのような態度に、レアンの胸が痛んだ。


「ですから……これ以上お話しするのは、きっと良くありませんわ」


 ロザリエは小さく頭を下げると、その場から去ろうとした。

 その背に、レアンの手が自然と伸びていた。自分でも驚くほど素早く、そして強く。


「そんなことはない!」


 思わず声を張っていた。

 彼女の細い手首をそっと掴み、その腕越しに体温を感じる。

 ロザリエは驚いたように振り返った。瞳の奥に、今にも涙がにじみそうな光を宿しながら。


「他人の言葉だけで、物事を判断してしまうのは……間違ってる。僕は……自分の目で見た貴方を信じたい」


 言いながら、自分でも不思議だった。ついさっきまで、救いようのない女だの、顔から性格の悪さが滲み出ているなどと、そう思っていたはずなのに。

 でも、今目の前にいる彼女は————そうではなかった。

 風にふわりと揺れる銀の髪。

 大きな紫水晶の瞳に、心を奪われたのは、きっとほんの一瞬のことだった。


「……ありがとうございます、レアン様」


 ロザリエはそっと微笑み、少しだけ手を握り返した。

 まるで、世界から拒絶される少女が、ようやく救われた瞬間のように、慎ましく、控えめに。レアンはただ、息を呑むしかなかった。


 そんなレアンの戸惑いを前にして————。


 ロザリエはその内心で、小さく口角を持ち上げていた。


(……単純な男)


 この一連のやり取り、すべてがロザリエの筋書き通り。

 カリナが〝悪女〟と呼ばせたこの少女は、ハンカチを自らの手で落とし、レアンに拾わせ、笑みを向けさせ————。

 ただそれだけで、彼の心を掌に載せた。


(レアンにエラ。あなたたちの関係がどうなろうと、私には関係ない。存分に利用させてもらうわ)


 そして、廊下の柱の陰からそっとこちらを覗く視線に、ロザリエは気づいていた。

 紫の瞳をそのままレアンに向けながら、ほんの少し、肩を寄せる。


 わかりやすく嫉妬に揺れるエラの表情が、視界の隅に映る。

 その一瞬で、ロザリエの勝利は確信に変わった。





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