49 沈黙
王宮の夜は、まだ深く静まり返ってはいなかった。廊下の窓からは、仄かに灯る月光が白く床を照らし、三人の影をゆらゆらと伸ばしていた。
エミリオは両手を後ろで組み、軽快な足取りで歩いている。口元にはいつもの飄々とした笑みが浮かんでいた。
「いやぁ、ちょっとヒヤヒヤしたけど、全部解決してよかったね〜、デリウス!」
まるで宮廷での激しい一幕が幻だったかのように、軽やかな声が空気を和らげた。だが、隣を歩くルーデリウスは、小さく眉を寄せて首を振る。
「……全部、解決したわけじゃないからな。ゲラルドたちは捕らえたが、その背後で渦巻いていたものの余波は、これから広がっていく。王家の信頼も、国の秩序も、しばらくは揺らぎ続けるだろう」
真面目な声色に、エミリオは肩をすくめた。
「いや〜、真面目だなぁ、君は。ほんと、ちょっとくらい気楽に考えた方がいいと思うよ?」
「……気楽に考えて済む問題なら、そうしたかったさ」
そう呟くルーデリウスの横顔には、責任を背負う者の静かな覚悟が刻まれている。すると、エミリオはパチンと指を鳴らして明るく言った。
「じゃあ、しんどくなったらいつでもルトワーズに遊びに来なよ。あ、また僕の従者になるってのはどう?」
振り返りざまに言うエミリオは、悪戯を仕掛ける少年のように、どこか無邪気だった。だが、彼の中にはきちんと分別があることを、ルーデリウスはもう知っていた。あの皮肉屋のようで誠実な性格を。
「……次期国王を従者にしようとするのはお前ぐらいだ」
肩を竦めながら返すと、エミリオは待ってましたとばかりに声をあげて笑う。
「ロザリエお嬢様も、時間があれば是非ルトワーズへお越しくださいね。僕が誠心誠意ガイドを務めさせていただきますから」
エミリオは、いつもの柔らかな笑みを浮かべながら、紳士然とロザリエに向かって手を差し出した。手の甲に軽く唇を寄せる直前、ルーデリウスが素早く割り込むようにして、その手を振り払った。
彼の動きは自然でありながらも、ほんの僅かに焦りの色を帯びていた。彼はロザリエの前にすっと立ちはだかると、静かにしかし明確な意志を込めて言葉を紡ぐ。
「ほう?では僕も同行させていただくとしよう。ロザリエお嬢様が旅先で何かあっては困るからな」
ロザリエは一瞬目を見開き、その表情にはかすかな戸惑いと、わずかな微笑が浮かんだ。
「ちぇー、ガード固いなぁ」
エミリオが肩を竦める。飄々とした態度はそのままだが、その奥にあった企みのようなものが見透かされたことに、どこか悔しそうでもあった。
エミリオはふと足を止めた。その動作に二人が振り返ると、彼はまるで何気ない雑談でも始めるように軽やかな声で言った。
「じゃあ僕、これからブルクハルトの王宮を散策してみようかな」
まるで遠足に来た少年のような瞳で、廊下の奥を眺めるエミリオ。
その言葉に、ルーデリウスは思わず額に手を当て、小さくため息を吐いた。
「……好きにしろ。ただし、騒ぎは起こすなよ」
ルーデリウスの声には呆れが滲むが、同時にしっかりとした〝ここがブルクハルトの王宮内であることを忘れるな〟という警告の響きもあった。
その言葉に、エミリオは子供のように肩をすくめて笑った。
「ははっ、信用ないなぁ、僕って。ちゃんとマナーは弁えてるつもりだけど?」
そう言って、エミリオはロザリエとルーデリウスに一礼すると、くるりと踵を返して足取りも軽く歩き出す。
「じゃあね!なにか面白いものがあったら教えてあげるよ〜!」
そんな軽口を残して、彼は廊下の向こうへと姿を消していった。その後ろ姿を見送りながら、ルーデリウスはふぅと息を漏らす。
取り残された二人の間に、静かな沈黙が流れていた。
ロザリエは、歩を進めながら、ちらと隣を見る。しかし、金髪碧眼の青年————いや、王太子ルーデリウスは、前を向いたまま、無言で歩いている。
ロザリエは胸の奥で何かがざわつくのを感じながらも、言葉が見つからず、ただ無言のまま歩き続けていた。何か話すべきなのだろうけれど、心の中がぐるぐると混乱して、どう言葉にすればいいのかわからなかった。
その沈黙は次第に重く、気まずくなり、彼女の頬はほんのりと紅をさした。目は視線を泳がせ、言葉に詰まり、ただ息を整えるだけで精一杯だった。
その時はっきりとしたルーデリウスの声が廊下の静けさを破った。
「ロザリエお嬢様」
驚いて思わず声を上げてしまう。
「は、はい!?」
大袈裟な反応に、自分でも驚いた。
ルーデリウスはその目に優しさを湛えながらも、真剣な表情で続けた。
「お疲れではありませんか?」
その言葉に、ロザリエの胸の中のざわめきが少しだけ静まった。気遣われているのだとわかり、慌てて言葉を探したが、うまく出てこず、しどろもどろになってしまう。
「い、いえ、平気です……」
自分の声がどこか頼りなく聞こえて、顔が熱くなるのを感じた。
ルーデリウスは一瞬、そんな彼女の様子を見つめ、すっと微笑みを浮かべた。その微笑みは、これまで見せてくれた中で最も穏やかで、まるで彼女の心の迷いを溶かすかのようだった。
そして静かに言った。
「……では、少し僕に付き合っていただけませんか?」
そう言って差し伸べられた手。
その手は決して強引ではなく、けれど揺るぎない確かな温もりがあった。ただ純粋に、ロザリエのためだけを思う王太子の姿がそこにあった。
ロザリエはその手を見つめ、心臓が高鳴るのを感じながら、ゆっくりと、そっとその手を取った。




