46 ゲラルド・オーディット
人は、生まれを選べない。
それは、幼きゲラルドが最初に知った理だった。
生まれ落ちたその瞬間から、彼は〝望まれぬ子〟だった。
父は王家の血を引く高貴な男、先代国王の弟。そして母は、ただの侍女————いや、それよりもなお低い、宮廷で使い捨てにされるような立場の弱い若き娘だった。
かつて、先代国王の弟は、若き日の気まぐれで一人の侍女に手を出した。相手は、名もない出自の娘だったという。
その夜は、ほんの戯れでしかなかったのだろう。貴族社会における、忘れられるほどありふれた過ち。
だが、神はその一夜に「命」を宿した。
やがて、侍女の腹は膨らみ始めた。身分の低い女が王家の子を孕んだ————その事実が明るみに出れば、待つのは破滅でしかない。王弟は責任を取ることも、庇うこともなかった。
寧ろ、噂が広がる前に処理するよう、密かに命が下されていたという話すらある。
女は、震えていた。
このまま王宮にいれば、腹の子ごと殺される。そう悟った侍女は、ある夜、誰にも気づかれぬよう屋敷を抜け出した。
わずかな金と着の身着のままで、彼女は逃げた。
夜道を行き、森を抜け、都を離れ、名もない片田舎に身を隠す。そこは、誰も自分の素性を知らぬ、風の音ばかりが響く寂れた村だった。
彼女は、そこでひっそりと暮らし始めた。誰に頼るでもなく、誰にも知られず、ただ懸命に、腹の子を守りながら。
そして、生まれたのが————ゲラルド。
彼女は口を閉ざしていた。
誰にも、子の父が誰かなど語らなかった。ただ夜毎、遠くに見える王都の灯を見つめながら、幼い息子を胸に抱いていた。
あの日のことを、ゲラルドは決して忘れない。
空がやけに蒼くて、風は冷たいはずなのに、妙に生ぬるかった。幼い彼は、母に頼まれて町へ買い物に出かけていた。パンと少しの乾物。それだけを袋に詰め、帰路についた彼は、家の前で何かがおかしいと、直感した。
扉は半開きで、家の中からは物音ひとつ聞こえない。
「……母さん?」
声をかけても返事はなく、ゲラルドは小さな身体で扉を押し開けた。
そこで見た光景は、あまりにも残酷だった。
床には、血が広がっていた。その中心に、母がいた。白い肌に、赤が滲む。目は虚ろで、口は何かを言いかけたまま、もう動かない。
「……か、あ……さ……」
声にならない悲鳴が喉を焼いた。だがその絶望を押し潰したのは、室内に佇む影だった。
黒いコートを羽織った男たち。無表情に、母の死体を見下ろす彼らの目に、感情はなかった。ただ冷たく、無機質で、まるでそれが「仕事」であるかのように。
ゲラルドの存在に気づいた彼らの視線が、ぴたりと彼に集まった。次の瞬間、そのうちの一人が、目を見開いた。
「……碧眼だ」
ざらりとした声が空気を切った。
「間違いない。王家の血筋……この瞳は、ブルクハルトの証だ」
彼らは、知っていたのだ。
この少年が、国王の弟の私生児であることを。だからこそ、この場に居合わせた彼を、殺すわけにはいかなかった。殺せば、〝王家が私生児を処分した〟という事実そのものが記録として残る。消すことはできない。ならば、閉じ込めるまでだ。
こうして、ゲラルドは「国家の恥」として知られることのないよう、密かに処理されることとなる。
王命により、表向きには「縁故による養子縁組」として、彼はオーディット伯爵家に迎え入れられた。
名門でありながら、後継者に恵まれていなかったその家門は、王の意向に逆らえず、彼を戸籍に迎え入れた。
それは保護ではなかった。それは庇護でもなかった。
ただの監視だった。
ゲラルドの自由は、母の死と共に奪われた。笑顔の裏に貼り付いた「疑念」と「警戒」。彼の存在は、常に監視され、記録され、どこにも居場所を持てなかった。
それでも、彼は生きた。誇りを捨てず、牙を隠し、学び、鍛え、笑った。
いつか、この手で清算する日のために。
————ゲラルド・オーディットが正式に「オーディット家の嫡男」として認められたのは、十七の歳だった。
形式上は養子ではあるものの、幼い頃から英才教育を施された彼は、既に伯爵家の誰よりも政治に通じ、学術に明るく、加えて剣術にも秀でていた。
十八になった年。ゲラルドはオーディット家の病弱な一人娘を妻に迎えた。
彼女は虚弱な体を持ち、外に出ることも稀だった。男児はおろか、女児すら産めぬのでは、と噂された身体。だが、ゲラルドにとってはむしろ都合が良かった。
彼女が病の床に伏している間にも、ゲラルドは家中を掌握し、やがて当主の座を手にした。
そして正式にオーディット伯爵家の当主となったその瞬間。
彼は、長年封じられていた家の中枢へと足を踏み入れた。
それは、代々の当主のみが開くことを許された私室の奥、重厚な鉄の扉に守られた金庫室だった。
分厚い扉を、古びた鍵で開けた瞬間、微かな金属の軋む音とともに、ひんやりとした空気が顔に吹きかかった。
中には、財宝や領地証明書、重要な書状の数々が整然と保管されていた。
だがその中に、明らかに空気を異にする、古びた箱がひとつ、ひっそりと収められていた。
漆黒の革装に金の金具が施されたそれは、封蝋が丁寧に施されており、長い時の中で誰の手にも触れられてこなかったことが伝わってくる。
ゲラルドは封を切り、慎重に蓋を開けた。
中には、数枚の羊皮紙が収められていた。
一読するや否や、彼の眉が静かに動いた。
それは、オーディット家を象徴する花、レペグリアに関する極秘の文書だった。
花弁・茎・根、それぞれに含まれる成分の詳細な分解構成、乾燥・粉砕・抽出工程に至るまでが、科学的かつ緻密に記されていた。
レペグリアはオーディット伯爵家の家紋に用いられる高貴な花。だが、一定の工程を経れば、毒となること。
すべてが、そこには記されていた。
「……やはり、そういうことか」
ゲラルドは低く呟いた。
オーディット伯爵家は、ただの貴族などではなかった。
王家に忠義を尽くすふりをして、いざという時には無血の暗殺すら可能な、一握りの知識を持った家系。
レペグリアは、その象徴だった。
養父が「家の誇りだ」と語ったその花が、どれほどの人間を沈黙させるために使われてきたのか。この秘密を、何故自分にだけ伝えなかったのか。
否。伝える気など、初めからなかったのだ。
王家の落胤にして〝外の血〟であるゲラルドに、この知識を託す気など。
ゲラルドは、書状を再び丁寧に箱へ戻し、静かに蓋を閉じた。そして目を伏せ、冷たい微笑を浮かべた。
「……だったら。お前たちの誇りとやらを……この手で、滅びの象徴に変えてやろう」
その夜から、ゲラルドは静かに、毒の研究に取りかかることとなる。
復讐の炎は、もはやただの感情ではなかった。
それは彼の冷徹な意志と共に、王家と、すべての血に向かって燃え上がりつつあった。
♦︎
やがて、病弱で子供を産むことなど不可能だと言われた妻は、なんと二人の子供を産んだ。
まずは男児。続いて、赤い髪の女児。命を削るような出産だった。女児の誕生から数年後、妻は静かに息を引き取った。
葬儀の場で涙を流した者は多かったが、ゲラルドの目はひとときたりとも潤むことはなかった。
(……使える)
男児には家名を、女児には未来を————。
ゲラルドの中では、すでに筋書きが完成していた。女は、王太子に近づけさせる。清楚な衣装を纏い、微笑みを学ばせ、誰よりも淑やかで、誰よりも有能な「未来の王太子妃」に育て上げる。
愛するためではない。守るためでもない。
操るためだ。
王太子の隣に立つことで、娘は王族の血に最も近い存在となる。それは即ち、ゲラルド自身が「王の義父」として、政の背後に立つ道が開けることを意味していた。
(腐り切った王家。血統に驕り、過去に縋るだけの連中に……私が、終止符を打つ)
彼はそう信じていた。
これは革命ではない。復讐でもない。————粛清だ。
ゲラルドにとって「国」とは、母を殺し、幼き彼を檻に閉じ込めた化け物であり、「家族」とは、己を飾るための駒に過ぎなかった。
彼は理知的で優美な仮面を纏いながら、着々とその構図を整えていく。誰よりも忠義を装いながら。誰よりも、遠くから王冠を見据えながら。
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