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42 正体

 ロザリエは、赤い絨毯の縁に立ち尽くしていた。パーティー会場の熱気とざわめきの中で、彼女だけが時間から取り残されたようだった。

 どうすればいいのか分からない。ここで叫べば、逆上した悪女の狂言と取られるだろう。証拠は……あの手袋だけ。だがそれも、今やカリナの手中だ。

 拳を強く握りしめることしか、今のロザリエには出来なかった。


 視線の先には、麗しい笑みを浮かべるカリナの姿があった。絹のように波打つブロンドの髪を揺らし、幾人かの令嬢を従えて、リチャードの隣に立っている。その姿は、まるで既に王妃の座を手にしたかのようだった。


 給仕係がカクテルのトレイを差し出すと、カリナは流れるような所作で一つを手に取った。


 その瞬間————カリナの指が、グラスの縁をすっとなぞる。


 ロザリエの心臓が跳ねた。


 それはほんの一瞬、誰も気づかぬような繊細な所作。けれどロザリエは知っていた。あの親指に、毒が仕込まれていることを。わずかに塗られた、透明な、ほとんど見えない液体。それを、カリナはごく自然に、グラスの一部に塗りつけたのだ。


 次の瞬間。

 カリナは、あたかも何事もないかのようにグラスを持ち替え、その唇を、毒の縁を避けた角度でそっと触れさせる。


 飲んだ、ように見せかけて。


 だが————実際にグラスの毒には触れていない。

 その動きは、完璧だった。わざとらしさは微塵もなく、滑らかで、優雅で、誰の目にも自然に映っただろう。


 それでも、ロザリエには分かった。


 彼女は、この会場の中に「毒が存在していた」ことだけを残そうとしている。そしてその毒の出所を、ロザリエのものへと仕立て上げるつもりなのだ。


 ロザリエが思案を巡らせている間に、カリナは毒を塗ったグラスをさも何気なく近くのテーブルに置いた。その手つきは、まるでただ飲み終えたグラスを戻すだけのように自然で、誰もそこに不穏な意図を見出すことはない。


「……あら?」


 カリナの細い肩が、僅かに揺れた。

 自分の額にそっと手を添え、眉をひそめる。その仕草は、まるで急な眩暈に襲われたようだった。

 ぐらり、と身体が傾ぐ。


「カリナ?」


 すぐさまリチャードが隣で反応した。彼女の腕をとり、支えるように背中へ手を添える。


 しかし、その手が彼女の身体を包んだその瞬間、カリナはばたりと、劇的に崩れ落ちた。


「カリナッ!!」


 リチャードの叫び声が、会場の空気を裂く。


 一瞬の沈黙のあと、会場がざわめいた。令嬢たちが口元を押さえ、貴族の子息たちが顔を見合わせる。

 誰かが「医師を!」と叫び、誰かが「一体何が……?」と囁く。床に倒れ伏したカリナの顔は青ざめ、胸元のブローチが淡く揺れていた。


 ————演技だ。


 すべては仕組まれた芝居。

 自身が「毒を盛られた可哀想な令嬢」であるかのように見せかけ、次なる段階————犯人探しへと誘導するための舞台装置。


 そして、その標的は。

 ————ロザリエ・ジークベルト。


 リチャードは、まるで壊れものを扱うかのように慎重に、カリナの体を抱き起こした。彼女のドレスが床の上で広がり、淡い香りがかすかに漂う。彼女の顔色はひどく悪く、口元は震えていた。


「カリナ、しっかりしろ……!」


 その呼びかけに、ゆっくりと、カリナの長い睫毛が震える。


「……だいじょうぶですわ、リチャード様……」


 か細い声が、カリナの唇から零れ落ちた。


 その声音のなんと儚く、なんと痛々しいことか。カリナは、リチャードの手を借りてゆっくりと身体を起こす。

 頼るように、懸命に微笑みを作るその姿は、見る者の胸に訴えかけるには十分すぎた。まるで毒に倒れながらも、王太子に心配をかけまいと気丈に振る舞う、けなげな少女のように。


「……まさか、毒?」


 誰かの呟きが、波紋のように会場を揺らした。ざわ……と空気が震え、隣り合う令嬢たちが不安げに目を見交わす。


「毒ですって?嘘でしょう?式の場だというのに……」

「ありえない……でも、彼女、本当に倒れたのよ?」

「でも……なぜ、カリナ嬢が……?」

「誰かが、彼女を狙ったってこと……?」


 不安と憶測、そして好奇心の混ざった声が渦を巻く。


 そして————。


「……まさか……」


 その言葉に導かれるように、会場の視線が一斉にロザリエへ集まった。


 鋭く、冷たく、訝しげで、時にあからさまに敵意を孕んだ視線の嵐が、彼女を貫く。令嬢たちの扇が、口元を覆う仕草の裏に揺れ、子息たちは一歩引くように距離をとりながら、ひそひそと囁き合う。


 喉の奥が乾いて、ロザリエはごくりと唾を飲み込んだ。

 何もしていない。

 何も、していないのに、この空気は、彼女を犯人に仕立て上げようとしている。


 まるで、すべてが予定された演目だったかのように。


「ロザリエ……お前なのか?」


 その言葉は、まるで凍てつく刃のようだった。リチャードの瞳は鋭く、冷たい光を帯びてロザリエを射抜いていた。


「……答えろ」


 静かな声だった。だが、その一言は雷鳴よりも重く、場を圧した。周囲のざわめきが、ぴたりと止まる。すべての視線が、ロザリエ一人に向けられる。


 喉の奥に何かがつかえているようで、言葉にならない。

 違う、と言いたい。

 そんなこと、するはずがない、と。


 けれど、その声は胸の奥で凍りつき、一歩も外に出てこなかった。この空気の中で、否定がどれほど虚しく響くかを、ロザリエは理解していた。


 言葉が、届かない。


「……ロザリエを、連れて行け」


 リチャードの声が、無慈悲に響いた。


 その瞬間、会場の隅に控えていた近衛兵たちが、一斉に動き出す。武器を抜くことこそないが、その足取りは固く、ためらいはなかった。


 ロザリエは動けなかった。

 足が、床に縫い付けられたように凍りついている。


 ————ああ、この感覚。

 知っている。よく、よく知っている。


 あのときと、同じ————!


 記憶が、容赦なく脳裏を貫いた。


 回帰前。すべてを失った、あの夜。


『どうしてこのようなことを……ロザリエ様』

『嫉妬で正気を失ったのかしら』

『カリナ様に手をかけるなんて……なんて、なんて卑しい』


 目の前で、リチャードが————あのときも、彼は彼女を見ていた。けれどそれは、愛情でも慈悲でもなかった。彼の隣には、やはりカリナがいた。

 青ざめて倒れた彼女を庇いながら、リチャードはロザリエを睨み、そして、命じたのだ。


『ロザリエを……牢に入れろ』


 婚約は破棄された。名誉も、家も、すべてが剥ぎ取られた。否定しても誰も耳を貸さず、叫んでも、罵られて、蔑まれて、やがて彼女は、沈黙しかできなくなった。


 そして今。


 同じように睨む瞳。

 同じように動き出す近衛兵。

 同じように、冷たく沈黙する貴族たちの顔。


 何も変わっていない。回帰したはずなのに。違う未来を選ぼうとしたはずなのに。


 ロザリエが唇を強く噛み締めたその瞬間だった。


 ————ギィィ……


 会場の扉が重く軋む音とともに、ゆっくりと開かれた。

 誰もが振り向くその中、硬質な靴音が会場の床を打ち鳴らす。


 姿を現したのは、一人の青年だった。


 漆黒の髪が光を吸い、夜の闇を纏ったように冷ややかに揺れる。燃えるような紅の瞳が、会場のすべてを見通すように鋭く光っていた。

 身に着けているのは質素な従者の礼装。だが、その歩みには従者らしい卑屈さなど一片もない。

 その一歩ごとに、周囲の空気が、確かに、変わった。


 ざわついていた貴族たちは、思わず道を開けた。

 見知らぬ青年のはずなのに、その雰囲気に抗えなかった。

 気圧され、押し黙り、ただ彼の行く先を見守るしかなかった。


 そして彼は、ロザリエの前に立った。


 ロザリエを庇うように。彼女と近衛兵のあいだに割って入るように。

 その立ち位置には、従者の枠を超えた意志があった。


 場内の空気が張り詰める中で、彼ははっきりと宣言した。


「ロザリエお嬢様は無実です」


 言葉が、雷鳴のように場を打った。

 誰もが息を呑んだ。


「……デリウス……?」


 ロザリエは、思わずその名を呼んでいた。まるで夢のような光景に、瞬きが止まらなかった。

 いつも後ろを歩いていたはずの彼が、今は自分の前に立ち、誰よりも強く、誰よりも凛として場の空気を支配していた。


 その背中は、あまりに頼もしく、そしてどこか、見知らぬものだった。


「な、なんだっ……お前は……!」


 リチャードの叫び声が響いた。その顔は驚愕と動揺に染まり、手が震えているのが遠目にも分かる。

 思い出しかけていたのだ。忘れかけていた〝影〟を。


「ここは……従者風情が、立ち入っていい場所ではない!」


 リチャードの声は、怒りに満ちていたというより、怯えに満ちていた。声の震えが隠しきれず、顔が引きつっていた。


 そんなリチャードに、デリウスはふっと口元を緩め、静かに呟いた。


「……久しぶりの再会だというのに、随分なご挨拶じゃないか」


 その声は低く、冷ややかでありながら、どこか、懐かしさを帯びていた。


「なぁ?リチャード」


 そして、刹那。


 デリウスの黒髪が、ふわりと揺れた。

 風もないのに、まるで光の粒が髪に宿ったように、静かに、そして確かに、その色が、変わり始めた。


 漆黒だった髪は、糸を引くように金色へと染まっていく。夜を思わせる深い影が、朝の陽光に洗われるように、一筋また一筋と淡い金へ。

 さらりと流れるその艶やかな髪は、もはや従者のものではなかった。


 そして、その瞳もまた。


 燃えるような紅の光は静かに揺れ、やがて深く澄んだ碧の色に染まっていく。まるで湖面のように冷たく、静かで、何より高貴なその色。


「金色の髪に……碧色の瞳……?」

「まさか……王族の……!?」


 ざわざわと波立つように、会場全体が騒然とする。貴族たちは一斉に顔を見合わせ、あちらこちらで扇が震え、杯がこぼれ、囁きが飛び交った。


「……本物、なのか……?」

「でも……亡くなられたはずでは……」

「いや……あの立ち姿は……まさしく……!」

「先程、一瞬で御髪と瞳の色が変わりましたのよ…!?」

「あれが、魔法というもの……!」


 その中心で、リチャードは立ち尽くしていた。顔から血の気が引き、唇がわなわなと震えている。


「あ、あに、うえ……っ……?」


 かすれた声が、彼の口から零れ落ちた。

 その名を、最も口にしたくなかったはずの人物の名を。それは、彼が長年心の奥底に封じ込めていた亡霊だった。


「……あぁ。久しいな」


 デリウス————否、ルーデリウスは、微笑を浮かべたまま、静かにそう呟いた。その笑みには、皮肉も、怒りも、誇りもない。

 ただ、ほんのわずかだけ、哀しみが滲んでいた。


 その瞬間。


 それまで玉座で沈黙を守っていたブルクハルト国王が、音を立てて立ち上がった。


「……ルーデリウスっ……!」


 玉座にあるまじき、叫び声だった。堂々たるはずの王の声が、震えていた。


「本当に……お前なのか……?」


 王の目が揺れている。威厳ある姿の奥に、父としての戸惑いがにじんでいた。

 ルーデリウスは、ゆっくりと国王を見上げた。そして、変わらぬ柔らかな笑みを浮かべながら、深く一礼する。


「えぇ。お久しぶりですね、父上」


 その言葉は、まるで長い夢から醒めたかのように、会場全体に静寂をもたらした。


 父と子の、再会。

 しかしそれは、ただの親子の抱擁では終わらない。この五年、ルーデリウスがどこで何をしていたのか。なぜ死んだと思われていたのか。そしてなぜ、今この場に現れたのか。


 ロザリエは、ただその光景を見つめていた。

 信じられない思いと、胸を締めつけるような感情が混ざり合っていた。


 ————この人が、ルーデリウス。

 自分の従者として笑っていた人が、失われた第一王子……?


 会場は、沈黙に支配されていた。


 誰もがまだ、現実についていけていない。失われた第一王子の帰還。それはあまりにも衝撃的で、あまりにも突然だった。


 その沈黙を最初に破ったのは、他でもない国王だった。


「……しかし、ルーデリウス。お前、一体……今までどこに……」


 その声は、王としての威厳というより、父親としての戸惑いと安堵が滲んでいた。失ったと思っていた息子が、いま目の前にいる。

 心からの疑問だった。

 なぜ、どこで、どうして、五年もの間————。


 だが。


「その前に、明らかにすべき真実がございます」


 ルーデリウスの言葉が、国王の問いを遮った。


 柔らかだった口調が、少しだけ鋭くなる。その瞳に宿るのは、個人的な感傷ではない。

 王子としての責務————この国のために、真実を明かす覚悟だった。






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