41 哀れ
「……可哀想なロザリエお嬢様」
カリナはそう言って、口元に手を添えるようにして笑った。その声は小鳥のさえずりのように澄んでいて、けれど吐き出される言葉は残酷で、ひどく冷たい。
ロザリエの手は、まだカリナの左手首を掴んでいるはずだった。なのに、気づけば、その手がするりと解かれていた。いつの間にか、逆にカリナの指先に絡め取られていたのだ。
細い指が、まるで愛おしむように、ロザリエの手を撫でる。甘やかで柔らかい所作が、背筋に冷たいものを走らせた。
「誰も、貴女の言葉を信じてくれないだなんて……ほんとうに、可哀想」
ゆっくりと、毒を塗るように、カリナは囁く。その目には同情の色などひとかけらもない。あるのは、勝者の余裕と愉悦。
「……っ、貴女がっ……!」
ロザリエの唇から、思わず掠れた声が漏れた。胸の奥に堆積していた、あの日からの感情が、ついに溢れ出す。
「……全て、貴女の仕業でしょう……っ!私を、悪女に仕立て上げて……!孤立させて……っ!」
カリナの顔が、さらに微笑んだ。それはもはや演技ですらなかった。心からの笑み————嗜虐に満ちた、純粋な悦びの表情。
「……あら。気付いていたのね」
その言葉に、ロザリエの胸がずきりと痛んだ。
「貴女が悪女と呼ばれるように仕向けたのは、私。令嬢たちが貴女を避けるように仕向けたのも、私。リチャード様が私のことを気にかけるようになったのだって……ふふ」
その声は甘やかで、何ひとつ飾らない愉悦に満ちていた。これまで周到に仮面を被っていた女が、今まさにそれを脱ぎ捨てようとしている。
ロザリエの心臓が、不規則に脈打つ。苦しいほどの衝撃と怒りが、胸の奥を掻き乱していた。
「どうして……このようなことを……!」
ロザリエの声が震える。
憎しみというよりも、理解できないという戸惑いが、そこには滲んでいた。なぜ、こんなにも執拗に。なぜ、彼女は自分にこれほどまでに執着してきたのか。
カリナはその問いに、わずかに目を伏せる。そして、ゆっくりと顔を上げると、まるで天使のように微笑んだ。
「……どうして? ふふ、それはね」
その声音は、あくまで優雅で、穏やかだった。けれど、次に吐き出された言葉は、毒そのものだった。
「昔から邪魔だったのよ。王太子の婚約者になった貴女が、ずーーっと!」
ロザリエの胸がきゅっと縮む。
「……あなたが知らなかっただけで、私もね、王太子妃の候補だったのよ」
カリナの声には、かすかに熱が混じっていた。
抑えても抑えても滲み出す、過去への執着と悔しさ。
「小さな頃から、礼儀作法も教養も完璧に仕込まれてきたわ。それこそ、伯爵家の娘として……いいえ、それ以上の、王妃になる器として育てられたの。お父様からも、お前は絶対に王妃になれと言われてきたわ」
彼女はひとつ、笑う。それは自嘲にも近い、小さく、苦い笑みだった。
「でも、選ばれたのは私じゃなかった。……貴女だったの」
声がかすかに震えた。
「それを聞いて、私、笑ったのよ。拍手さえしたわ。ねえ……滑稽でしょう?自分の席を奪われた瞬間に、祝福の笑みを浮かべたのよ」
カリナの瞳がロザリエを刺すように見つめる。けれどそこには怒号も叫びもない。ただ、静かに燃える炎のような視線がある。
「ずっと憧れてたの。……王妃という立場に。けれど、貴女は違った。まるで、当然のように、その座に座っていた。疑いもなく、それが自分の役目だと思っていた。……それが、どうしようもなく許せなかった」
静かな、けれど深く沈んだ憎悪の底。
「……今夜、貴方は婚約者の座から引き摺り下ろされる。そしてその座につくのは私よ」
彼女の声は美しく澄んでいた。だが、そこに含まれる悪意は、凍てつく氷の刃のように鋭かった。
「毒が付着したグラスを落とし、倒れる私。周囲は騒然となり、貴女は『何か知っていたようだった』と囁かれる。ねえ、想像できるでしょう?〝毒を盛ったのはカリナ嬢に嫉妬したロザリエお嬢様〟————明日にはそんな話が貴族たちの噂を満たすわ」
カリナはニコリと微笑む。
「あなたは、王妃にはなれないの。妃にふさわしいのは、可憐で、同情を集めるこの私。そして、王族に疎まれる悪女の貴方はもう不要なのよ」
ロザリエの指先は、微かに、けれど確かに震えていた。喉がひりつく。鼓動の音ばかりが、やけに大きく響いていた。
(……この手袋を、奪えば……証拠は残る。けれど……カリナの言う通り、悪女と呼ばれた私の言葉を、誰が信じてくれる?)
ぐるぐると巡る思考は、出口のない迷路だった。信頼という土台が崩れた人間の声は、誰にも届かない。たとえどれほど正しくても、たとえどれほど真実を叫んでも。
(でも……)
喉奥で、言葉にならない息が詰まった。
(このまま、黙っていたら……本当に、すべて奪われる)
王太子妃の座も、名誉も、誇りも、何もかも。それでも、口が動かない。足が、前へ踏み出せない。
そんなロザリエの葛藤など、カリナにはお見通しだったのだろう。彼女はふわりとロザリエの手から自分の手を解くと、
優雅にスカートを翻し、踵を返す。
「それでは、失礼いたしますわ」
まるで戯れを終えた舞台の女王のように、カリナは軽やかに言い残した。
その背は揺らがない。勝者としての風格すら帯びて、颯爽と廊下の奥へと消えていく。
残されたロザリエの瞳には、悔しさが滲んでいた。唇が、かすかに噛みしめられる。
(私は……このまま、何もできないの……?)
閲覧ありがとうございました!!
評価やブックマーク、いつも励みになっております!!




