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40 仮面の裏

 重厚なシャンデリアの光が天井からこぼれ落ち、宝石のように煌めくドレスの群れと、気取った貴族たちのざわめきがホールを満たしていた。

 卒業を祝う晩餐会が、ついに幕を開けたのだ。


 その一隅で、ロザリエは動かず、ただひとりの令嬢を見つめていた。


 カリナ・オーディット。


 桃色のドレスに身を包んだその女は、リチャードと共に周囲の令嬢たちと笑顔を交わしていた。時折、リチャードに向ける眼差しは、妹のように無邪気で、愛らしさすら帯びている。彼もまた、優しげにそれに応じ微笑んでいる。

 誰が見ても、和やかで華やかな一幕だった。


 だがロザリエの視線は、そこに潜む僅かな歪みを見逃さなかった。


(……今のところ、怪しい動きはない。でも…)


 その「動きがないこと」自体が、不自然なのだ。


 もうすぐ給仕が、カクテルを運んでくる時間。カリナが自作自演を仕掛けるなら、間違いなくそのタイミング。

 毒を自らのグラスに仕込んだ上で、ロザリエの近くで倒れる————。それが、彼女の常套手段。


 令嬢たちと談笑を続けるカリナを、ロザリエは目を逸らすことなく見つめ続けた。

 ただ一瞬の隙、油断、手の動き。それがすべてを決める。

 今の彼女に、余裕など一欠片もない。


 鼓動が速まる。けれど息を吐けば、それはすぐに押し殺された。

 笑ってはいけない。表情に出してもいけない。ただ、静かに、確かに、見張り続けるしかない。


 まるで、いつ毒蛇が牙を剥くか見極めるように。


 その時、カリナがごくわずかに視線を動かした。


 それは給仕の方角。銀のトレイを持った少年が、会場の奥から現れる。


(来た……)


 ロザリエの喉が微かに鳴る。

 視線を逸らすことなく、次の瞬間に備える。


 いつだ。

 いつ、あの女は仕込む?

 それとも、もう……すでに仕込んであるの?


 もしそうなら、このまま倒れるのを見ているしか、できないのか。


 ロザリエの指先が、ドレスの裾を握った。

 その爪の下で、薄絹がきしむ音さえ、頭の奥で強調された。


 給仕たちが銀のトレイを手に、会場へと滑るように入り込んでくる。

 琥珀や翡翠、真紅に彩られたカクテルグラスが、煌びやかな光を受けてきらめいた。

 場の空気が、わずかに変わる。杯と笑顔が交差する、そのほんの刹那。


 カリナが、動いた。


 リチャードにこそっと耳打ちをし、ドレスの裾を整える仕草は自然だった。

 誰も不審には思わない。令嬢たちは会話を続け、リチャードですらカリナに軽く視線を送っただけで、何も言わなかった。


 だが、ロザリエだけは見逃さなかった。


 その一歩。

 その微かな〝急ぎ足〟を装った足取り。

 給仕が現れた直後という、あまりにも都合のよすぎるタイミング。


(……今、だわ)


 直感が告げていた。

 カリナは、今まさに毒を仕込もうとしている。これまで沈黙を保っていたのは、すべてこの瞬間のためだった。


 ロザリエの全身から汗が引き、視界が一瞬だけ鋭く狭まる。


 誰にも気づかれないよう、ドレスの裾を翻しながら、カリナの後ろ姿を追う。

 会場の喧騒を背に、ロザリエは素早く廊下へと足を踏み出した。扉が音もなく閉まり、絨毯の敷かれた廊下に、しんとした空気が満ちる。


 ————いない。


 扉のすぐ外に、カリナの姿はなかった。

 視界を左右に走らせても、廊下には誰もいない。ドレスの裾の名残も、靴音の余韻さえない。


(どこに消えたの……?)


 まさか、すでに控室に————あるいは裏手の化粧室に?

 焦りが喉の奥を焼く。

 逃したかもしれない。毒を仕込まれたあとかもしれない。


 その時。


「まぁ、ロザリエ様?」


 ふいに、背後からふわりとした声が届いた。

 振り返る。そこに、桃色のドレスの女がいた。


 カリナ・オーディット。


 まるで何もなかったかのように、廊下の角を曲がって現れたその姿は、笑みを浮かべて完璧な淑女の装いを纏っていた。


「どうなさいましたか?ご気分でも優れないとか?」


 艶やかな髪に微かな香水の香り。乱れひとつないドレス。

 そして、彼女の両手は空っぽだった。


 毒の小瓶など、どこにも見当たらない。

 手袋も、白く滑らかで、何の異変もないように見える。


 だが————。


 ロザリエは、一歩だけ彼女に近づいた。

 カリナの香水の香りが、かすかに鼻先をかすめる。

 だが視線は逸らさず、呼吸を深く一つ、胸の奥に沈める。


 違和感。


 目に見えぬ、けれど確かにそこにある、わずかな綻び。

 笑みの角度。指先の緊張。脚の向き————それらすべてが、ごく微細に、ロザリエの直感を刺激していた。


 その中で、どうしても拭えなかった違和感。それは、ほんの数分前に廊下で鉢合わせた時。


 カリナが、咄嗟に左手を下にして手を組んでいたことだった。


 わざわざ下に回す必要などなかったのに。あの瞬間だけ、左手を隠すように。

 ロザリエの瞳が鋭くなる。

 そのまま、手の甲を見るでもなく、言葉も告げず、ふいに、カリナの左手首を掴んだ。


 触れた瞬間、カリナの指先がかすかに震えた。

 だがその動揺は一瞬で掻き消され、すぐに彼女は、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。


「……あら、どうかなさいましたか?」


 声も、顔も、崩れていない。だが、その完璧さこそが不自然だった。


 ロザリエは、左手首を掴んだまま、視線を彼女の顔から逸らさず、ゆっくりと呟いた。


「……やっぱり」


 その言葉の端が、わずかに震えそうになるのを、唇を噛んで抑える。

 けれど、目だけは逸らさず、まっすぐにカリナを見据えた。


「……手袋の、親指。毒が染み込んでるわね」


 その瞬間。


 カリナの瞳がわずかに見開かれた。

 完璧に仕立てられた仮面に、初めてヒビが入る。


 やはり、あの時の左手を守るように下に組んだ仕草は無意識の防衛だったのだ。


 ロザリエは、なおもカリナの左手首を掴んだまま、じっと彼女を見つめていた。

 先ほどの、ほんの数秒のやり取り。

 その中に隠された、たった一つの綻びが、すべてを物語っている。

 左手の親指。なぜ、他の指ではなく、そこなのか。なぜ、わざわざその指を下に組んで隠そうとしたのか。


(……わざと、グラスに〝毒を付けた跡〟を残すため)


 考えたくもないが、ロザリエの思考は鋭くそこへたどり着いた。

 毒は、飲ませるためのものではない。〝自分のグラスに毒が付着していた〟という状況を、意図的に作るためのもの。


 自分の手袋の親指に毒を染み込ませて、カクテルの縁をなぞる。そして、後に調べれば、毒が付着していたと分かる。


 ロザリエの鋭い目付きな、カリナの瞳が、再びわずかに揺れる。


(そう……あなたは、〝毒を盛られた可哀想な令嬢〟になろうとしていた)


 そのために、小瓶などは必要なかった。

 毒をグラスに注ぐ動作は、誰かに見られれば即座に疑われる。

 だが、手袋の指先でそっとなぞるだけなら、ほんの一秒の仕草で済む。

 まるで、何気ない令嬢の所作に紛れて。


 しかも、倒れたあとで毒の付着が見つかれば、「誰かに盛られた」ようにしか見えない。


(……巧妙だわ。だけど、私がそれを知っている限り、あなたの罠は成立しない)


 ロザリエの手に、わずかに力がこもる。


 一方カリナは、ロザリエの手に掴まれたまま、ひとつ大きく息を吐いた。その吐息はため息のようであり、芝居がかった哀れみのようでもあった。


「知って、どうするの?」


 その声は変わらなかった。

 いつものように愛らしく、鈴を転がすように甘く響く声。けれど、それが余計に、ロザリエの胸を冷やした。


 ここまで見抜かれたというのに、彼女は焦りも、恐れも見せない。


「……貴女の手袋を、調べてもらうわ」


 ロザリエは冷たく、感情を抑えて言葉を紡いだ。


「そうすれば、あなたが毒を仕込んだ証拠が————」

「それで?」


 カリナの声が、かぶせるように響く。笑みを浮かべたまま、彼女は首を傾げる。


「……貴女の言葉を、誰が信じるというの?」


 その一言に、空気が凍った。


「悪女である、貴女を、誰が信じるかしら」


 カリナの目は笑っていた。だがその笑みの奥にあったのは、確信と残酷。自分の優位を、すでに計算し尽くした者だけが持つ冷ややかさだった。

 ロザリエの喉がひくりと動く。だが、言葉が出ない。


 この場に証人はない。証拠も、毒の反応がある手袋一つ。その証拠さえ、「ロザリエがこっそり染み込ませた」と言われれば————?


 まるで、足元の地面が静かに崩れていくような錯覚に陥る。


「誰も、貴女の正しさを見てくれない。悪女と決めつけられた貴女の言葉なんて、誰も耳を傾けない……」


 カリナは、まるで子供が絵本を読み聞かせるかのように、楽しげに言葉を紡ぐ。


「それが現実よ……っふふ」


 その笑顔は可憐で、しかし、吐き気がするほどに、冷酷だった。





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