39 運命の日
「……よくお似合いです。ロザリエお嬢様」
支度の最後に、そっとかけられたデリウスの言葉は、彼女の心の奥に静かに残っていた。
純白と薄紅を基調にしたドレスは、春の陽光のようにやわらかく、見る者の目を奪う。胸元に添えられた黄金のネックレス————オル・ド・ルミエールの魔法石が、微かに光を揺らしていた。
卒業式の日。晴天。
式典と祝賀の幕開けにふさわしい、晴れやかな朝だった。
けれど、胸の内は嵐の前のようにざわついていた。
そしてそれは、ロザリエだけではなかった。
会場に足を踏み入れた瞬間、まるで風が止んだように空気が張り詰めた。
ざわ……ざわざわ……
会場内の貴族子弟たちが、囁き交わす声が静かに広がっていく。
豪奢なシャンデリアが煌めく大広間に、あからさまな視線が集中する。
「……あら?」
「まさか……」
「あの噂は本当でしたのね……」
静かに交わされる視線と囁き声。
それは、誰かが何かを言葉にするよりも先に、〝皆が理解してしまった〟がゆえのざわめきだった。
ロザリエ嬢の隣に、リチャード殿下はいない。
それは偶然ではない。体調不良でも、業務多忙でもない。これまでの数々の社交の場では、殿下は既に別の女性と連れ添っていた。
カリナ・オーディット。
幾度となく、彼女はリチャードの隣で笑っていた。だが、それはあくまで「非公式」だったからこそ、皆、見て見ぬふりをしてきた。
けれど、今日の式典は、違う。
学園生活の集大成。王族も、五大公爵家も、名のある貴族たちも皆が一堂に会する、最も格式高い行事。
その場でロザリエの隣に立たなかったという事実は、何よりも雄弁に、彼の意志を示していた。
ジークベルト公爵家との婚約は、既に空約束に過ぎない。そう、誰もが心の中でそう結論づけた。
中には、わずかに口角を吊り上げる者もいた。
次期王妃の座が揺らいだ————それは、政略の水面に大きな波紋をもたらす。
一方、ロザリエ本人は、その場にいる誰よりも、背筋を伸ばし、毅然と歩いていた。細い首筋に光るネックレス。春霞のような薄紅のドレス。
けれど彼女の瞳には、華やぎではなく、燃えるような静けさがあった。
恥ではない。敗北ではない。
彼女の歩みがそう語っていた。
ロザリエ・ジークベルト公爵令嬢は、誰にもすがらず、この場に立っている。
「やはり、おひとりでお越しに……まあ、それも当然ですわね」
「誰かの傍に立つには、まずご自身がふさわしい淑女でなければなりませんもの」
「婚約者のご寵愛すら得られぬようでは……立場も、お察しですわ」
ひそひそと交わされる囁き。笑いを堪えた肩の震え。扇子の陰から盗み見る好奇と嘲笑の混じった視線。
ロザリエは一切表情を崩さず、まっすぐに、王族席————参列していたブルクハルト国王と王妃のもとへと進む。
場内に漂う重苦しい空気の中、その一歩一歩は確かで、揺るがない。
「ロザリエ・ジークベルトでございます」
ロザリエはゆるやかにドレスの裾をつまみ、優雅に一礼した。
「本日このような晴れの式に、無事参列できますこと、深く感謝申し上げます」
王妃が小さく目を見開いた。
王は、鋭い視線をロザリエに向けたまま、しばし沈黙した後、ようやく静かに口を開く。
「……久しいな、ジークベルト公女。其方の名は、近頃よく耳にする」
柔らかな口調だったが、その言葉の裏にあるものは重く、鋭かった。
ざわ、と空気が揺れる。
「本来であれば、このような場で私が言及すべきことではないが……噂は、我が息子リチャードに関わるものだ。無論、其方に対して疑念を抱いているわけではない」
一瞬、王妃がちらりと王を見る。その表情には、何かを言いかけて押しとどめるような気配があった。
「だが、ジークベルト家の娘として、この式に参列する以上、其方には自らの品位をもって立ち振る舞う義務がある」
ロザリエはほんのわずかに目を伏せ、そしてまた王の眼差しをまっすぐに見返す。
その視線には怯えも、反論もなかった。ただ静かな、確固たる意志だけがあった。
ロザリエは深く、二度目の礼を捧げる。
その姿には、どこまでも気高い誇りが宿っていた。
誰が何と言おうとも、嘲りを受けようとも、悪女と蔑まれようとも。ロザリエ・ジークベルトは、己の誇りを曲げなかった。
再び、会場がざわめいた。
そっと人々の視線が一斉に向けられたその先————そこには、堂々と手を取り合い、寄り添って入場してくる二人の姿があった。
リチャード・ブルクハルト王太子殿下と、カリナ・オーディット伯爵令嬢。
光の差し込む扉の中、黄金の髪を揺らしながら現れた王子の隣にいたのは、まばゆいほどに飾られたドレスを纏う、美貌の令嬢。
カリナは桃色のドレスに身を包み、まるで春の精霊のように柔らかな微笑を浮かべていた。
その瞳は、周囲の称賛の声に応えるように艶やかに光り、リチャードの腕に手を添えたまま、誇らしげに歩を進めてくる。
「まあ……なんて立派な装いでしょう」
「まるで童話の一幕のようですわね」
「カリナ嬢とリチャード殿下……まさに絵画のようなお似合いぶりではなくて?」
周囲の令嬢たちは目を輝かせ、貴族の子息たちでさえ、感嘆の声を漏らしていた。その様子は、もはや公然たる事実を受け入れているかのようだった。
————ああ、リチャード殿下の隣にふさわしいのは、あの娘なのだと。
ロザリエの胸に、冷たい風が吹き抜けた。
けれど、彼女は一切、顔を歪めなかった。王と王妃の前から静かに身を引き、何事もなかったかのように人々の間へ戻っていく。
会場内の視線がカリナへと注がれている今、ロザリエを気にする者はいなかった。
ただ。
「……さすがですわ、オーディット令嬢。やはりこの手の場では、美しさと知性がすべてを制しますのね」
「ええ……〝あちら様〟とは何もかもが違いますもの」
薄く笑う令嬢たちの声が、ロザリエの耳に届いた。
だが、それでもロザリエは立ち止まらない。俯きもせず、堂々と歩みを進める。その背筋は、誰よりも真っ直ぐだった。
(……大丈夫。落ち着いて)
誰に言うでもなく、ロザリエはそっと胸の内で自分に言い聞かせた。
(私は、なすべきことを果たすだけ)
それ以外の感情を、今は脇に置いておく。そう、迷いや不安、悔しさでさえも。
視線を伏せたまま、彼女はほんの僅かに唇を噛みしめた。痛みによって揺らぎそうな心を押しとどめるかのように。




