38 前夜
卒業式の前夜。
夜気が静かに張りつめ、学園の塔に囲まれた中庭にも、星の光すら届かぬほどの闇が広がっていた。生徒たちの部屋に灯る明かりも次々と消え、明日に備えて誰もが眠りに就こうとしているというのに————その夜、ロザリエはまったく眠れなかった。
薄手のナイトドレスの上から、軽く羽織を纏い、彼女はゆっくりとバルコニーへと出る。ひやりとした風が頬を撫でた。見上げれば、月は雲に隠れ、夜空はどこか沈黙に満ちているようだった。
(明日が来れば……私の運命が決まる)
その事実が、重く心にのしかかっていた。
カリナ・オーディット伯爵令嬢の罪が暴かれなければ、自分は再び「悪女」として断罪されるだろう。どれほど備えても、未来に絶対などありはしない。回帰者としての記憶すら、確実な保証にはならないのだ。
(それでも、進むしかない)
それが己に課せられた運命だと、彼女は受け入れていた。
だが、それでも……時折、胸の奥がひどく孤独に疼くのだった。
その時だった。
「……ロザリエお嬢様」
不意に背後から、優しい男の声がした。
驚いて振り向く間もなく、ふわりと温もりが肩に触れた。驚きに瞬きをすると、厚手の上着が彼女の肩を包んでいた。
「今夜は冷えますよ。……明日は大切な式ですから、もうお休みになられては?」
その声の主————デリウスが、少しだけ眉尻を下げて、心から案じるような目で彼女を見つめていた。
細やかに揃えられた黒髪。夜を映すような深い赤の瞳。その静かな眼差しに、ロザリエは言葉を失った。
「……あなたこそ。まだ眠っていなかったの?」
問いかけると、デリウスは肩をすくめて微笑む。
「ええ。……お嬢様の灯りが消えないものですから。ご無理をされているのではないかと、少し気になりまして」
まるで、小鳥の羽音を気遣うような口調だった。
その思いやりが、言葉以上に胸に染みる。
ロザリエはデリウスの顔をじっと見つめた。
この男のことが、時折、分からなくなる。平民のはずの彼が持つ教養の高さや、鋭い観察眼。そして何より、時折、彼の瞳の奥に灯る深い哀しみと、決して口に出されることのない静かな覚悟。
「……デリウス」
ふいに呼びかけると、彼は目を細め、微かに首を傾けてみせた。
「はい?」
変わらぬ、穏やかな声色。けれど、ロザリエは今夜だけは、その笑みに誤魔化されずにいた。胸の奥にこびりついた疑問が、言葉となって浮かび上がる。
「どうして、貴方は……私を信じてくれるの?」
風が止み、空気が一瞬だけ固まったように感じた。
デリウスの瞳がゆるやかに揺れる。だが彼はすぐに答えず、ただロザリエをじっと見つめ返していた。
ロザリエは、自分でも意外なほど、落ち着いた声で続けた。
「最初は……貴方が私に従ってくれるのは、私の家柄のせいだと思ってたの。ジークベルト公爵家の令嬢なら、お金目当てで取り入ろうとする者も少なくないわ。……だから」
そこまで言って、ふと口をつぐむ。
「だから、優しくされても、信用してはいけないって……そう思ってたの。でも……あなたは、違った。ずっと……私のそばにいてくれた」
その声は次第にかすれていった。
疑念よりも、信じたくなる気持ちの方が、今では大きかった。けれど、信じることが怖いのだ。信じたその時に、もし裏切られたら————自分がどれだけ脆く崩れてしまうのかを、彼女は誰よりもよく知っていた。
沈黙が流れた。
けれどそれは、苦しいほどの沈黙ではなかった。
デリウスはしばし遠くの闇に目をやり、それから静かに息を吐くように答えた。
「……初めてお嬢様と出会った時から……いや、貴方を一眼見た瞬間に、その瞳の奥に、あるものを見つけてしまったのです」
「……あるもの?」
「……痛みです」
ロザリエは息を呑んだ。
「お嬢様は、誰より強くあろうとしている。でも、ずっと、痛みを抱えている。その痛みに……どうしてだか、僕は、目を逸らせなかった」
彼の視線は、ふと遠くに向けられた。
それは、まるで過去を辿るような、柔らかな光を帯びていた。
————まだ、「ルーデリウス」として王城にいた頃のこと。
幼いながらも王子としての務めを課され、時折政務に同席していたあの春の宵。
大広間に煌びやかな光が満ちる中、王宮での舞踏会が催されていた。
貴族たちが着飾り、笑い、祝宴を謳歌するその場でルーデリウスは、ふと一人の少女に目を奪われた。
小柄で、まだ幼さを残した少女。
けれど、その身にまとう気品は大人びていて、言葉遣いも所作も隙がない。
彼女は、ジークベルト公爵家の令嬢、ロザリエ。
大人たちに囲まれ、丁寧に一礼を繰り返す姿は、まるで教本の中から抜け出したような完璧さだった。
それが、ただの訓練の賜物ではないことを、ルーデリウスはすぐに悟った。
あれは、身を守る術だ。
小さな体を、心を、決して踏みにじられないための、盾。
彼女の瞳に宿る光を見た瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。
美しさの中に確かに見えた、影。
それは、ただの緊張や場の圧に晒されたものではなかった。もっと深くて、冷たい孤独の影。恐らく、誰も気づいていない。誰も、あの中にある痛みに気づいてやれない。
彼女は、強くあろうとしていた。
毅然として、決して隙を見せず、誰よりも堂々としていた。
まだ子供だったはずなのに。
誰かに甘えることもできず、ただ貴族の娘として期待される姿を演じていた。
その強さに、畏れと、哀れみと、尊敬と、そして……惹かれる気持ちを覚えた。
思わず足を踏み出しそうになった。
けれど、あの夜の自分には、どうすることもできなかった。近づく理由も、言葉も、資格すらなかった。
だから、ただ黙って見ていた。
ただ、一人の少女の孤独な戦いに、心を打たれていた。
————あれが、最初だった。
あの夜から、ずっとずっと、ルーデリウスの心の奥にロザリエの姿は焼き付いていた。
決して誰にも言えない、秘めた想い。
「僕は、お嬢様の味方でありたい。……それだけのことです」
それは、約束でも、誓いでもなかった。ただひとつの、まっすぐな意思だった。
ロザリエは胸が締めつけられる思いだった。理由が欲しかったはずなのに、その理由のない優しさが、どこまでも深く沁みてくる。
ふと気づくと、彼の上着の裾を、知らぬうちに指先でそっと握っていた。
「……ありがとう、デリウス」
ようやく絞り出すようにして紡いだその一言は、震えていた。言葉にすれば壊れてしまいそうなほど、繊細な思いが込められていた。
彼に微笑もうとしたけれど、それがうまくいかなくて、ロザリエは視線を逸らした。
夜の静寂が、ふたりの間を優しく包む。
ただの従者と主。
けれどそれ以上の何かが、確かに芽吹いているのを、ロザリエは自覚してしまった。
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