36 オル・ド・ルミエール
「おい、エミリオ。聞いてるのか」
低く鋭い声が、空気の揺らぎを断ち切るように響いた。
その一言で、エミリオは現実に引き戻される。応接間の柔らかな光、磨かれた木製の調度品、深く沈み込む革張りの椅子。どこかぼんやりとした表情のまま、彼は瞬きを一つ。
「……あ、ごめんごめん。聞いてるよ、ちゃんと」
そう言ってエミリオは笑みを浮かべたが、その頬にはほんのりと紅が差していた。目元には、どこか懐かしさを宿した柔らかな光。
「……ニヤニヤして、気持ちの悪いやつだな」
苦々しげに呟くルーデリウス————否、今はデリウスとしている彼が、じろりとエミリオを睨む。睨んではいるが、そこに本気の怒りはなく、どこか呆れたような気配すら感じられた。
「ひどいなぁ。懐かしい顔を見て、ちょっと浸ってただけじゃないか」
「……勝手に浸るな。大事な話の最中だ」
ルーデリウスは椅子の肘掛けに肘をつき、指で軽くこめかみを押さえる。無意識のうちに出たその仕草にも、どこか品位が滲んでいた。
「それで?」
低く、しかし確かな威圧を込めてルーデリウスは尋ねた。応接間の空気が一瞬、ぴたりと張りつめる。
「機密文書と国宝のネックレスは?ちゃんと持って来てるんだろうな」
対するエミリオは、まるで野に咲いた花でも見ているかのような無邪気な笑みを浮かべたまま、悪びれもせず首を傾げる。
「もちろん。……っていうか、その疑り深い視線、やめてくれる?僕ってそんなに信用ない?」
「あると思ってたのか」
「酷いなあ」
ぶつくさ言いながら、エミリオはズボンのポケットに手を突っ込み、くしゃくしゃと音を立てて何かを引っ張り出す。
「はい、これ」
彼の手の中にあったのは、折れ曲がり、しわくちゃになり、ところどころ角が丸まりかけた羊皮紙。今にも破けそうな箇所すら見受けられる。
ルーデリウスの眉がピクリと跳ね上がる。
「……ゴミか?」
「ううん。毒の解析と生成法についてまとめた機密文書」
「馬鹿!!!!!!」
机が揺れるほどの怒声が応接間に響き渡った。エミリオは肩をすくめ、ケロッとした顔で紙を振る。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと内容は読めるし、インクも滲んでないよ?ほら、ルトワーズの羊皮紙は質がいいから耐久性もあるし」
「そういう問題じゃない!!なぜ機密文書をズボンのポケットに突っ込む!?!?」
「いや、だってカバン持ってなかったし……手に持ってたら落としそうだったから……」
「その理屈でポケットに入れる奴があるか!! 破れたらどうする!?誰かに盗まれたら!? というか、くしゃくしゃにする時点でお前の神経を疑う……!」
「うーん……じゃあ今度から封筒に入れる?」
「そこじゃない!!」
怒鳴りながらもルーデリウスは頭を抱え、苦々しい思いで深いため息をつく。まだ国宝のネックレスが無事かどうかも確認していないのに、胃が痛い。
「まったく……レイヴンなら、桐箱に入れて持ってくるというのに……」
「えー、レイヴンより僕の方がフットワーク軽いし、それにほら、可愛いでしょ?」
「うるさい。黙れ」
ルーデリウスは椅子にもたれたまま、鋭い視線を隣に座る男へ向けた。彼の声には、抑えた苛立ちが滲んでいる。
「……国宝も、まさかポケットに突っ込んでいるはずがないよな?」
視線は自然と、エミリオのズボンのポケットへと向かう。
「それで傷が付いていたりでもしたら、全責任をお前に負わせる」
無駄に整った顔に浮かんだその険しい表情は、まさに王族の圧。だが、その圧を一身に受けても、エミリオはまるで気にした様子もない。肩をすくめ、のんきな声で返してきた。
「やだなぁ。我が国の国宝を、そんなぞんざいに扱ったりしないよ?」
「機密文書もぞんざいに扱うな……!」
ルーデリウスの口調が一気に跳ね上がる。机の上には、エミリオがポケットから引きずり出したシワくちゃの羊皮紙。羊の脂の匂いすら残るそれは、明らかに持ち運ばれた文書というより、雑に扱われた紙そのものだった。
ルーデリウスはその紙を摘まみあげて、光に透かす。文字が滲んでいないか、折れや破れはないかを丹念に確認しながら、ぶつぶつと文句をこぼす。
「はいはい、機密文書の件は水に流す流す!国宝はちゃーんと厳重に持って来てるから」
エミリオはおどけたような笑みを浮かべながら、指先で軽く空をなぞった。するとその軌跡が淡い光の糸となり、やがて空間の一点に集束していく。微かに空気が震えると、ふわりと宙に浮かび上がるように、白銀の装飾箱が出現した。
それはまるで美術品のように精緻な細工が施された箱だった。ラピスラズリが散りばめられ、王家の紋章が中央に浮き彫りにされている。ひと目でそれがただの宝飾品ではないと分かる威厳を放っていた。
エミリオはそれを両手で慎重に持ち、そっと蓋を開ける。
「はい、ご所望の我が国の国宝だよ」
その瞬間、箱の中からふわりと柔らかな光が漏れ出した。暖かく、優しい金色の光。それは確かに光の名を冠するに相応しい輝きだった。
ルーデリウスは、目を細めながらその中身に視線を落とす。
そこに納められていたのは、黄金に似た色味の宝石が等間隔に連なったネックレスだった。しかし、よく見ればそれは単なる宝石ではない。————魔法石。
一つ一つが、魔力を帯び、まるで鼓動するように微かに光を脈打っている。
中央には、特に大きな石があった。黄金に赤い光が走るその核石には、まるで古代の紋章のような符文が刻まれており、それだけが他の石とは明らかに異なる存在感を放っていた。
「傷は……ないな。よくやった」
ルーデリウスが慎重にネックレスを手に取り、光にかざして一つひとつの魔法石を検分する。石の縁にも、金の留め具にも擦れはなく、箱の内布にわずかに沈むその形状からも、運搬中に乱暴に扱われた形跡はない。
……少なくとも、この箱にしまってからは。
「でしょでしょ?僕、偉い?」
誇らしげに胸を張るエミリオに、ルーデリウスは冷めた視線を送る。
「偉くない。傷がないことは、最低条件だぞ」
「えぇ〜っ、褒めてくれてもいいのに…」
エミリオはむくれたように唇を尖らせたが、ルーデリウスは意に介さず、視線を再びネックレスに落とした。
《オル・ド・ルミエール》————〝光の黄金〟の名を持つ、そのネックレスには伝承がある。
かつてルトワーズ王国を築いた初代国王が、自らの魔力を宝石に込め、魔法石へと変じさせたものだという。その魔法は、戦闘のためでも、治癒のためでもない。
〝声を録音する〟魔法。
古の魔法使いたちが、遠く離れた地に住む親類や恋人とやり取りをする際、筆ではなくこの魔法石に声を封じ込めていた。互いの思いを言葉にして石へ預け、それを贈り、また返す。
魔力を持つ者にしか聞くことはできず、聞いた後は自らの魔力を込めない限り再生されない————言わば、秘匿性と信頼性を兼ね備えた、魔法の手紙。
時代が進み、文書と印章の文化が定着してからは廃れていったものの、それでも王家の秘伝として伝わり続けてきた。
ルーデリウスがネックレスに視線を落としている間、エミリオは退屈そうに大きな欠伸をした。
「ねー、デリウス〜、そろそろ教えてくれても良くない?これ、何に使うの?僕、父上の署名まで取ったんだよ?『国宝の国外持ち出し許可』って、前例ないからね。結構、苦労したんだけどな〜」
まるで不満をぶつけるような口調ではあったが、瞳は真剣だった。何に使うか、それは、国家の王子である自分にとっても見過ごせない問題だ。だがルーデリウスは、その問いに一瞬の逡巡もなく、真っすぐに返す。
「これを使って、カリナ・オーディットの仮面を剥がす」
ルーデリウスは机の上に置かれた魔法石のネックレスを見下ろしながら、感情を押し殺すように言った。その声音には、復讐とも断罪ともつかぬ冷たい決意が滲んでいる。
エミリオはぱちりと瞬きをする。
「……カリナ……って誰?」
あまりに唐突な名前に、間の抜けた声が出てしまったのだろう。ルーデリウスは、軽く溜息を吐いてから説明を始めた。
「カリナ・オーディット伯爵令嬢。……リチャードの恋人だ」
「え?」
エミリオが眉を跳ね上げる。
「リチャード殿下って、確かロザリエお嬢様が婚約者だったんじゃないの?王族と公爵家の縁組でしょ?」
「そのはずだがな……」
ルーデリウスの声には僅かな皮肉が混じっていた。
「この学園に入ってから、弟はカリナ嬢に夢中らしい。貴族社会では既に噂になっている。ロザリエお嬢様を無視して、カリナ嬢とばかり親しげにしていると」
「……あらら、婚約者がいるのに?」
「ああ。しかも、カリナ嬢の方もしたたかだ。……単にリチャードに惚れているというよりは、目的を持って近づいているように思える」
言葉の終わりには、どこか警戒の色が混じっていた。
エミリオは口元に指を当てながら考えるような仕草をし、ぽつりと呟いた。
「オーディット伯爵家……ね。なるほど、そういうこと」
ふと、エミリオの表情が曇った。
記憶の奥から浮かび上がってきたのは、毒の解析の際に用いた、あの古びた羊皮紙。ルーデリウスが持ち込んだ、オーディット伯爵直筆の手紙である。筆致は端正だったが、その文面にはぞっとするような冷たい企図がにじんでいた。
娘のカリナをリチャードに近づけ、巧みに操り、婚約者であるロザリエを追い落とす。すべては布石か————その疑念は次第に確信に変わりつつあった。
「目的は……なんなんだろう?」
エミリオがぽつりと呟く。
目を伏せ、考えるように指を唇に当てながら、まるで独り言のように。
「まだ分からん」
ルーデリウスは、低く、だが力強く応じた。その声には静かな怒りが籠っている。
「だが、ロザリエお嬢様を排除しようとしているのは確かだ。……カリナ嬢は、その駒にすぎん可能性もある」
ルーデリウスはただ静かに告げた。
「カリナ・オーディットは、確実に本性を現す」
机に置かれた《オル・ド・ルミエール》の魔法石が、陽光を受けて微かに煌めく。
「……それは、ロザリエお嬢様の前だけで出す可能性が高い」
その言葉に、エミリオは首を傾げた。
無邪気な好奇心が覗く黄金の瞳が、静かにルーデリウスを見つめる。
「……?どうして、そんなことが分かるの?」
一瞬。ルーデリウスの瞳が、遠いどこかを見つめた。
視線の先には何もない。ただ、彼の脳裏には確かに、あの情景が広がっていた。
白日の下、冷たい風が吹きすさぶ広場。
その中央に、罪人として立たされた少女。
憎悪と絶望、あらゆる醜さが剥き出しとなった、あの〝最後の瞬間〟。
「……ただの、勘だ」
短く答えたルーデリウスの声には、かすかな苦味がにじんでいた。
「ふーん……」
エミリオはそれ以上は何も言わなかった。
問い詰めず、からかいもせず、ただ静かにその様子を見つめていた。
ふと、エミリオがルーデリウスの手元に目を落とし、何かに気づいたように声を上げた。
「……あれ?指輪、どうしたの?」
ルーデリウスは手を止める。エミリオの視線の先、自身の左手の指には、かつていつも嵌めていた銀細工の指輪がなかった。
「ほら、君の誕生日の時、ブルクハルト国王が正式に依頼してきて、ルトワーズの魔法石を嵌め込んだ指輪」
エミリオは椅子の背にもたれ、にやりと口元を吊り上げた。
「あれ、けっこう貴重なんだよ?まさか、無くした?それとも……どこかに置き忘れてきちゃったとか?」
揶揄うように目を細めて尋ねるエミリオに、ルーデリウスはほんのわずか、口元を緩めた。普段は滅多に見せない、それは確かに微笑だった。
「……あれは今、大事な任務の最中だ」
エミリオは興味津々に身を乗り出した。
「任務?」
ルーデリウスは軽く頷くと、視線を宙に投げた。
「〝持ち主〟を変えただけだ。いずれ戻ってくる」
弟、リチャードが自らの欲に従って喋るたびに、魔法石は沈黙のまま、けれど確かに、証拠を記録してゆく。
どんなに上辺を取り繕っても、その声音に混じる本音と欲望は、魔法の眼には隠しきれない。
そしてその証拠が集まりきったとき、指輪は再び主のもとへ戻る。
リチャードの懐に存在する指輪。
その冷たい輝きの内に、王家の闇が少しずつ蓄積されていくことを、彼はまだ知らない。
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