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34 出会い

 それは、唐突な出来事だった。


 喉を焼くような激痛が、全身を支配する。胃の奥から熱いものが逆流し、息をすることさえままならない。膝が砕け、鉄柵にもたれかかるようにして体を支えた。視界が歪み、吐き気と目眩が同時に襲ってくる。紅茶に……何か入っていたのか?

 しかし、いつ? 誰が?


 そう考えた、その時だった。


 ————ドン、と。


 背中に冷たい何かが触れた。触れたというよりも、突き飛ばされた。足元が、消えた。落ちていく。空気の感触が一変し、身体が浮く。


 ルーデリウスは、咄嗟に後ろを振り返った。


 見えたのは、弟の顔だった。リチャードの、弟であるはずのその男の、冷ややかな、笑み。


 ————リチャード……?


 ゾッとした。背筋を、鋭い氷の刃で撫でられたような感覚が走る。あの目。あの顔。これは————殺意だ。


 風が、顔を打つ。重力が、加速度を増していく。意識が遠のきかけたその時、ルーデリウスは自分が何をすべきかを思い出した。


 魔法だ。転移魔法を。


 このままでは死ぬ。地面に叩きつけられる前に……!


「……っ、……!」


 しかし、どこに?転移先の座標がない。焦りで思考がうまく回らない。王城でもない。街中でもない。人目のある場所は避けねば。


 ————くそっ、どこでもいい……!どこか、安全な場所……っ!


 息を吸う暇もなく、指先に力を込め、滲む意識の中で魔力を発動させた。


 白い閃光が一瞬、全身を包む。


 そして、ルーデリウスの姿は、渓谷から消えた。





♦︎




 さらり、と額に触れるものがあった。


 それはまるで風のように、優しく、やわらかい。だが確かに、誰かの指が、自分の髪に触れていた。微かな温もりが残る。


 朧げな意識の中、ルーデリウスはゆっくりと目を開けた。重たい瞼の隙間から見える景色は、光に霞んで曖昧で、焦点が合わない。何度も瞬きを繰り返す。


 やがて、ぼやけていた輪郭が徐々に形を成し始めた。


 一番に目に飛び込んできたのは、眩い金色の煌めき。光を反射する宝石のようで、思わず息を呑みそうになる。


 ……イエローダイヤモンドの、宝石。


 そんな馬鹿な、と自身の思考にすら疑問を覚える。だがそれは宝石などではなかった。瞳だ。人間の、瞳の色だ。


 銀糸のように滑らかな髪を持つ少年が、こちらを覗き込んでいる。

 真っ白な光に包まれた転移の直後のせいか、未だ夢の中にいるような錯覚に囚われる。けれど、確かに彼はそこにいた。


「あ、目が覚めたかい?」


 その声は、まるで春の陽だまりのように柔らかく、暖かかった。


 自分の命が風前の灯であったことを思えば、本来は警戒すべき状況のはずなのに、少年のその声音にルーデリウスの張り詰めていた神経はふっと緩んだように感じた。


 意識が朧げなまま、彼は無意識に体を起こそうとする。けれど、思うように手足が動かない。まるで自分の体ではないかのように、重く、鈍く、指一本さえも思う通りにいかない。


 そこでようやく、彼は自分がベッドに寝かされていることに気が付いた。温かく柔らかな敷布に包まれ、仄かに薬草の香りが漂うこの場所は、谷底に突き落とされたあの冷たく湿った渓谷とはまるで別世界だった。


 その様子を見ていた少年が、ルーデリウスの額に手を伸ばし、そっと汗を拭う。


「まだ、動かないで。……君、半月はずっと寝たきりだったんだから」


 優しく、けれどはっきりとした声音だった。


「体にはまだ麻痺が残ってるはずだよ。無理をすると、また倒れる」

「……半月……?」


 かすれた声でルーデリウスが繰り返す。己の中の時間感覚が、そこで初めて大きくずれていたことに気づいた。


 あの谷底に落ちたのは、つい昨日のことのように思えていたのに。

 喉の奥に乾いた熱が渦巻く。助かったのだという安堵と、それでも消えない不信と困惑とが胸の奥でせめぎ合う。


 ルーデリウスは、重いまぶたの奥でわずかに焦点を定めるように、瞳だけを動かした。自分が横たわるこの部屋の様子を、静かに、だが注意深く観察する。

 見覚えのない天井、深紅のカーテン、金細工の施された柱、上等な刺繍が施された天蓋付きの寝台。どこもかしこも、まるで絵画の中にでも迷い込んだかのような、華美で格調高い装飾だった。


 豪奢という言葉では言い尽くせないほどの、王族の私室を思わせる空間。だが、それは明らかにブルクハルト王宮のものではなかった。


「ここは、一体……」


 喉の奥で軋むように掠れた声を、何とか押し出す。

 すると、ベッドの脇に控えていた白銀の髪をした少年が、明るい声音で答えた。


「ここはね、ルトワーズ王国の王宮内だよ」


 ルトワーズ。


 その名を耳にした瞬間、ルーデリウスの胸に一瞬、ひやりとしたものが走った。国境を越え、隣国にまで飛ばされたのかと。だが同時に、理解もした。命の危機を逃れるため、無意識のうちに転移魔法を行使したのだ。結果として、彼はこの国の王宮に転移した。


「ルトワーズ……?」


 息の混じった問いに、少年は頷いてみせた。


「うん。吃驚したんだよ。あの日、庭で本を読んでたら、突然すごい音がしてさ。何かが落下したみたいな、大きな音。なんだろうって思って見に行ったら、君が倒れてたんだ」


 思い出すように目を細めながら語るその表情は、どこか楽しげですらあった。


「意識はなくて、体も冷え切ってて。すぐに医師を呼んだよ。最初はね……正直、助からないかと思った。でも、君、もの凄くしぶとかった」


 エミリオはそう言って、どこか嬉しそうに口元を綻ばせる。


 それを聞いたルーデリウスは、再び視線を宙にさまよわせた。あの日、渓谷で味わった痛みと絶望を思い出す。背後から押された感触、落下する感覚、喉を焼いた毒の痛み。


 彼は生きていた。そして、隣国の王宮の寝台にいた。


「……じゃあ……貴方は……」


 途切れそうな意識を繋ぎとめるように、ルーデリウスは掠れた声を絞り出した。声帯の震えは弱々しく、自分でも驚くほど頼りなかったが、それでも言わずにはいられなかった。


 目の前の少年は、ただの誰かではない。あまりに整った顔立ち、品のある物腰、そして……


「うん。僕は、エミリオ・ルトワーズ。この国の王太子だよ」


 少年はあっさりと名乗った。隠す素振りも、誇る様子もない。ただ、穏やかに、まるで「今日はいい天気だね」とでも言うかのように。


 その名を聞いた瞬間、ルーデリウスの中に何かが確かに落ち着いた。


 エミリオ・ルトワーズ。


 ルトワーズ王国の第一王子。その名は、公務を通じて何度も耳にしていた。直接の面識はなかったが、その存在が同世代の王族の中でも際立っていることは知っている。何より、彼は自分と同じ、魔力を持つ者。


 ようやくはっきりしてきた視界の中で、ルーデリウスはまじまじと目の前の少年を見た。白銀の髪はさらさらと光を反射し、金色の瞳は燦然と輝いている。その色は、まさしく、ルトワーズの王族を象徴するものだった。


 その容姿を持つ者は、王家の中でもごく限られた血筋にしか現れないとされている。なるほど。あの時、微睡みの中で見た宝石は、彼の瞳だったのだ。


「僕は……」


 喉の奥からようやく出てきたその言葉は、ひどく頼りない響きをしていた。何を言おうとしたのか。自分の名を明かすつもりだったのか、それとも状況の説明を始めるつもりだったのか。けれど、その言葉の続きは、目の前の少年、エミリオによって、あっさりと遮られた。


「知ってるよ。ルーデリウス・ブルクハルト殿下、だよね? その金色の髪と、碧い瞳」


 その言葉に、ルーデリウスはわずかに身を強張らせた。名を呼ばれたことに驚いたというよりは、その口ぶりがあまりにも軽やかだったからだ。


「ていうか、急に空から降ってくるなんて、魔法以外に考えられないし。しかもそれを使えるのって、王族の血筋だけ。金髪碧眼で、魔法が使える人間なんて、もう君くらいしかいないでしょ?」


 エミリオは「だから当然わかったよ」とへらりと笑う。


「……ルトワーズにまで、噂は流れてるよ。第一王子のルーデリウス殿下が、不慮の事故で亡くなったって。死体はまだ見つかっていないらしいけどね」


 淡々とした語り口。けれど、その瞳はルーデリウスの様子をよく観察していた。まるで、何かを探るように。


「君がここにいると知ったら、さぞブルクハルトはお祭り騒ぎだろうね。死んだと思われていた王太子が生きてたんだから」


 ルーデリウスの喉が、わずかに鳴った。乾いた音が自分にもはっきりと聞こえる。

 無意識に、自分の胸に手を当てる。そこで脈打つ鼓動が、やけに重い。


「……僕のことを……まだ、ブルクハルトには伝えていない、のか……?」


 そう問うと、エミリオは「うん」と、軽く首を縦に振った。だが、その表情は先ほどまでの朗らかさとは異なり、少しばかり曇っていた。


「だって君の体、明らかにおかしかったから。衰弱が酷くて、最初は飢えかと思ったけど……どうも、違った。毒……だろう?」


 ルーデリウスの瞳が、ぴくりと揺れる。

 エミリオはそれを見逃さない。


「君の体を魔法で少し調べさせてもらったんだ。……体内に、毒が残ってたよ」


 エミリオは淡々とした口調で語る。


「まだ詳しくは分からないけれど……ルトワーズでは使用前歴がない、初見の毒だった。摂取量が少なかったから、助かったみたいだ。だから、国の医師団が成分を解析しているところ。どんな作用を持つ毒か、慎重に調査中なんだ」


 ルーデリウスは目を伏せたまま、ただ黙っていた。だが沈黙が答えになったと察したのか、エミリオはそれ以上は問わなかった。


 代わりに、どこか柔らかい口調で続ける。


「……だから『はい、実は生きてました〜』なんて、すぐに知らせちゃうのは危ないと思ったんだ。ね?」


 悪戯っぽく笑ったその顔に、しかしどこか優しさが滲んでいた。

 ルーデリウスは、ベッドの上で僅かにまぶたを伏せる。


 エミリオはそんなルーデリウスの顔を見つめながら、ふと問いかける。


「……どうする?今すぐ、ブルクハルトに戻るかい?」


 その声音には強い誘導も、期待もなかった。ただ淡々と、選択を委ねる者の姿勢だった。

 ルーデリウスは短く、そして深く息を吐いた。


「………戻らない」


 その一言に、エミリオは眉をわずかに持ち上げる。まるで答えを予期していたようでいて、どこか楽しげに口を綻ばせる。


「おや、どうして?」


 問い返す声もまた軽やかだった。だがそれに対するルーデリウスの声は重く、硬かった。


「今帰っても、僕を殺そうとした奴らを捕まえるには……証拠が足りない。今のままでは、真実は闇に葬られる」


 静かながら、内に確かな炎を秘めた声音。エミリオは肩をすくめ、くすりと笑った。


「へぇ。ルーデリウス様って、意外と……復讐とかしちゃうタイプ?」


 その軽口に、ルーデリウスはひとつだけ首を横に振る。


「復讐……?違う」


 唇の端がかすかに歪む。だがそれは笑みではなかった。微かな痛みの混じった、過去を噛みしめるような表情だった。


 脳裏に浮かんだのは、あの渓谷で見た弟、リチャードの顔。兄を谷へと突き落としたあの瞬間の、信じがたいほどに冷たく、そして狂気じみた笑み。


 あれが現実だったことを、心はまだ完全には受け入れきれていない。


 だが、認めなければならない。


 次期国王として、そして————リチャードの兄として。

 この一件を、蔑ろにしてはならない。

 どれほど身内であろうとも、王家の名の下に行われた罪を黙認することは、国の礎を腐らせる第一歩となる。


 彼の動機が、王位への嫉妬か、魔力への羨望か。それとも、もっと複雑な感情が渦巻いていたのかは分からない。

 だが、あれは間違いなく、殺意だった。


「罪は、償わせる」


 小さく、だが静かにそう呟く。


 道を外れてしまった弟を、情に流されることなく、正当に裁く。

 それは王としての責務であると同時に、兄としての最後の誠意でもあった。


 もしリチャードに、まだ「王家の血」を宿す者としての矜持が残っているのなら。

 この裁きが、彼の心をどこかで救うのだと信じたい。


 それが、ルーデリウスにできる唯一のことだった。





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