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32 旧友

 石造りの渡り廊下を抜け、緩やかな階段を下りていくと、目前に視界をさえぎるもののない、広々とした中庭が広がった。


 陽の光をたっぷりと浴びた芝生の緑は瑞々しく、そのあいだを縫うようにして伸びる石畳の小道が中央の噴水へと続いている。花壇には季節の草花が咲き、ベンチでは数人の生徒が読書や談笑に興じていた。風に乗って、ほのかに甘い花の香りが漂ってくる。


「こちらが中庭です。生徒たちの憩いの場でもあり、授業の一環で植物の観察などに使われることもあります」


 そう紹介するロザリエの横で、エミリオは「おお〜」と素直な声を上げて、まるで牧場に放たれた子馬のように一歩、また一歩と庭へ踏み出していく。


「広いですねー……ここなら色々な実験もしやすそうです」


 言った瞬間、ロザリエはぴくりと眉を動かした。


 また、それだ。


 予感はしていた。というより、覚悟していた。それでも、こうも早く〝実験〟という言葉を口にするとは思っていなかった。


「新しく作りたい薬品が山ほどあるんですが……最近は少々、スペースが足りなくて」


 芝生の真ん中で立ち止まり、両腕をいっぱいに広げるエミリオ。その顔は、陽光を浴びていっそう明るく見える。だが、彼の口から出る言葉は明るさとは裏腹に、ロザリエの頭痛を誘発するものばかりだった。


「本当は、専用の部屋でしか実験しちゃいけないって父に言いつけられてるんですけどね〜」

「……言いつけられてる、というのは」

「ええ、以前あちこちでやってたら、厨房の換気窓が溶けてしまって。それ以来、王宮のいたる所に〝実験禁止〟の札が貼られるようになりまして」

「…………」


 ロザリエは額に指を当てた。


 先ほど図書塔で思った「この人、油断ならない」という印象は、今や「完全に目が離せない人」に格上げされた。


「……中庭は憩いの場ですので、実験の類はお控えくださいませ」


 努めて穏やかに釘を刺すと、エミリオはあっさり「はーい」と返した。


「では、次の場所へ参りましょう」


 ロザリエがそう言って、スカートの裾を軽く押さえながら中庭の小道へと歩を進めた瞬間だった。


 ————ぶわっ。


 突如として吹きつけた風が、石畳の上を舐めるように吹き抜け、乾いた落ち葉や小石を巻き上げた。

 風は一瞬にしてロザリエの髪を乱し、軽やかな布地のスカートの裾を空に翻した。とっさに手で押さえるも、視界の隅では木々がざわざわと揺れ、ベンチの上に置かれていた誰かのノートまでが空を舞っていく。


(……風が、強いわね)


 思わず心の中でそう呟いたその直後だった。


 どこかで金属の軋む音がした。反射的にロザリエが顔を上げた瞬間、視界の端に見えたのは、中庭の端に設置されていた白いパラソルが、風に煽られて傾き、ポールごとごうっという音を立てて転がり始める様子だった。


「……っ!」


 目が合った。いや、錯覚かもしれない。けれど確かに、パラソルはまるで意志を持ったかのように、風に押されて一直線に――ロザリエの方へと滑るように、突っ込んできた。


 息を呑む暇もなかった。身体が硬直し、逃げようにも足がすくんで動かない。風の轟音の中、パラソルの金属の脚が陽光を反射しながら迫ってくる。


(避けられな————)


 その瞬間。


 ロザリエのすぐ目の前を、風とは別の動きが横切った。

 それはまるで風を裂くような静かな動きだった。音もなく、影もなく。気がつけば、エミリオが彼女の前に立っていた。


「え……」


 驚きの声も出せないまま、ロザリエはその背中を見上げる。


 彼は、どこか遊び心でも混じっているような調子で、ひょいと右手を上げた。


 それだけだった。けれど。


 ゴウッ、と地面を擦って滑ってきたはずのパラソルが、まるで何かに撫でられたように軌道を逸れ、ふわりと上へ舞い上がったのだ。


 風の流れに逆らうように、まるで重力を忘れたかのように。

 ロザリエの頬をかすめた風が、突然、やわらかくなる。時が緩やかになったような錯覚の中で、パラソルはくるりと空中で一回転しながら落下してくる。


 ゆっくりと、慎重に、計算されたように。


 エミリオは落ちてきたパラソルの金属の棒部分を片手で受け止めると、そのままクルリと手の中で回して、くすりと笑った。


「やんちゃな風でしたね」


 そう言って、棒の先端を地面にトン、と立てる。


 「お怪我は?」と、気にも留めない様子でロザリエを振り返ったその表情は、いつものように飄々としていて、少しだけ無責任な、どこか愉快そうなものだった。


 ロザリエは息を呑んだまま、何も言えずにその顔を見つめた。

 そんなロザリエの反応を、エミリオは面白そうに見つめている。


「……おや」


 首を傾げ、彼はにっこりと笑う。


「魔法を見るのは、初めてですか?」


 まるで悪戯が見つかった子どものような無邪気な笑顔だった。


「……魔法?」


 聞き返す声が、わずかに震えた。


「ええ、今のはちょっとした風の魔法です」


 どこまでも軽やかに言うエミリオ。だがその言葉のひとつひとつが、ロザリエには重く響く。


「……なるほど。納得しました。……ブルクハルトでは、魔法を目にする機会はありませんから」


 ブルクハルト王国で現に生きている王族の血筋の中で、魔力を持つ者は存在しない。

 現国王も、また王太子リチャードも、生まれながらにして魔法の力とは無縁であり、王家に魔力が現れることは、すでに百年ほど前から途絶えていた。


 かつては奇跡の徴と称されたその力も、今やブルクハルトにおいては遠い昔の伝承として扱われるに過ぎない。

 だからこそ、ロザリエにとって魔法とは、本の中で読む架空の技に等しかった。


 今、その力を目の当たりにしている。しかも、それを涼しい顔で使いこなす人物は、隣国ルトワーズの第一王子————エミリオ殿下その人だった。


 ロザリエは息を呑んだまま、目の前の青年を見つめた。


 そんなロザリエの驚きの色を見て取ったのか、エミリオはにっこりと笑みを浮かべると、まるでおどけるように両手を軽く上げた。


「お嬢様がお望みであれば、こーんな魔法や、あーんな魔法もご覧に入れますよ?」


 そう言って、エミリオは子どもが宝物を自慢するように、両手をひらひらと動かした。すると、その手先からふわりと小さな光の粒がこぼれ落ち、今度は空中に淡い花のような文様が浮かび上がる。次いで、足元には淡い靄が走り、影が淡く揺らめくような視覚の魔法が広がった。


 どれもが、美しく、しかし、どこか悪ノリに近い軽やかさを伴っていた。


「……お気持ちだけ、いただきますわ」


 わずかに眉をひそめながら、ロザリエは冷静に言葉を返した。柔らかな微笑を添えはしたが、それが表面上の礼儀であることは隠しようがない。


 エミリオの魔法は確かに見事だった。けれど、王族の中で誰ひとりとして魔力を持たぬこの国で、突然それを目の前で遊びのように使われれば、反応に困るのも当然だった。


 エミリオの指がパチンと軽やかに鳴ると、ひらひらと空に舞っていた光や、地面に広がっていた影の模様が同時にふっと消えた。


 まるで、最初からそこには何もなかったかのように、景色は静けさを取り戻す。


「……まあ、僕の持つ魔力量は少ない方なので、使える魔法も限られてるんですけどね」


 さらりとした口調で言うその顔には、どこか照れくさそうな笑みが浮かんでいた。あれほど目を見張るような現象を、何気なく〝少ない方〟と評してしまう彼の無頓着さに、ロザリエは思わず言葉を失う。


「……まあ、そうなのですか?」


 ようやく絞り出した声には、隠しきれない驚きが滲んでいた。ロザリエには、今見せられた魔法の数々が十分すぎるほど規格外に映っていたからだ。


「はい。でも、僕の親友はもっとすごいですよ。僕より魔力量が多くて、使える魔法も幅広いんです」


 エミリオはそれを本当に嬉しそうに話した。まるで、誇るべき友人の才能に満ち足りた気持ちを抱くように。羨望や嫉妬の色は微塵もなく、ただ純粋に、親しみと敬意を込めて語られているのがわかる。


 その言葉に、ロザリエはさらに目を瞬かせた。エミリオで「少ない」というのなら、その親友とやらは一体どれほどの力を持っているのかと、想像もつかない。


「……エミリオ様のご友人で、魔法を扱えるということは……その方も、王族の方なのですか?」


 ロザリエが慎重に尋ねると、エミリオは楽しげに頷きながら、わざとらしく両手を広げて見せた。


「えぇ、えぇ。ロザリエお嬢様もよ〜くご存知の男ですよ」


 にこにこと笑うその顔は悪戯好きな少年のようで、どこか芝居がかっている。

 ロザリエは小さく首を傾げながら聞き返した。


「……私が、ですか?」


 妃教育を受けていた彼女は、各国の王族に関する基本的な情報はすでに頭に入れている。出身、家系、性格の傾向に至るまで、外交の場で失礼がないよう、事細かに叩き込まれてきた。


 中でも、〝魔力を持つ王族〟というのは特に珍しく、歴史的にも極めて稀な存在であると教えられてきた。

 そのため、エミリオのように魔力を持つ者は、ロザリエの知識の中ではただ一人のはずだった。


(私の知る限り……魔法を使える王族は、エミリオ殿下一人のはずだけれど……)


 思考を巡らせるロザリエの耳に、明るい声が届いた。


「ズバリそれは、ルーデリウ————」


「エミリオッ!!」


 その叫びが空気を切り裂いた瞬間、ロザリエの背筋に冷たいものが走った。


 目の前に現れたのは、従者であるデリウス。けれど、彼女のよく知る穏やかで物静かな青年の姿はそこになかった。怒気を孕んだ鋭い眼差し、乱れた息、そして何より————王太子に向かって名を呼び捨てにするという、あまりに無礼な行為。


 時間が止まったような一瞬の静寂の中で、ロザリエは信じられないものを見るように目を見開いた。


「デリウス……!エミリオ殿下になんて口を訊くの!」


 咄嗟に走った声には、思わず青ざめるほどの驚きと、気まずさと、どうにか取り繕わなければという焦りが混ざっていた。


 ロザリエの言葉に、デリウスの表情がぴくりと動いた。

 デリウスの顔は怒りの色が引き、代わりに「しまった」とでも言いたげな表情が滲んでいた。口元がわずかに歪み、目線が揺れる。


 まるで、己の無礼に今ようやく気づいたかのようだった。


 慌てたロザリエは、すぐさまエミリオに頭を下げようと一歩踏み出す。


「申し訳ありません、殿下。うちの従者が……」


 しかし彼女の謝罪の言葉は、明るく弾けた声にあっさりと遮られた。


「やっ、デリウス!久しぶりだね〜!」


 その瞬間、ロザリエの思考が一瞬止まる。


 エミリオは目を輝かせながらデリウスに歩み寄り、迷いなく彼の肩に腕を回す。ぐいと引き寄せるその仕草には、まるで旧友に久々に再会した少年のような無邪気さがあった。


「へぇ、その執事の服も悪くないけど……でもやっぱり、ルトワーズの従者の制服の方が君には似合ってたと思うよ?あ、でもネクタイは今の方が洒落てるかも」

「おい……!引っ付くなエミリ————」


 デリウスは一瞬、何かを思い出したかのようにハッとし、ゴホンと咳払いをしてから、いつもの微笑みの表情を浮かべる。


「……エミリオ殿下。お戯れは、ほどほどに願います」


 先ほどまでの砕けた口調を取り繕うように、デリウスは背筋を伸ばし、淡々とした口調に戻した。だがその声の端には、ほんの少しだけ怒りが滲んでいた。


 対するエミリオはというと、全く気にする様子もなく、むしろ楽しげに笑っている。


「え〜?そんなに堅くならなくていいのに。あ、でも、今はロザリエお嬢様の従者だったっけ。ふむふむ、そういうことかあ」


 ロザリエは、ぽかんとそのやりとりを見つめていた。


(……一体、どういう関係なのかしら、この二人)


 ロザリエは、軽口を交わしながら近すぎる距離感でじゃれ合うエミリオとデリウスを訝しげに見つめていた。まるで長年の親友のようでもあり、兄弟のようでもあり……しかし、それは到底、王太子と一介の従者に許される関係には思えなかった。


 言葉こそ丁寧に戻したものの、先程までの〝エミリオ〟呼びに、肩を組む姿、あの砕けたやりとりの数々が、頭の中でぐるぐると渦を巻く。エミリオの無邪気さとは対照的に、デリウスは明らかに困惑の色を浮かべていた。


 やがて、ロザリエはほんの少しだけ目を細め、意を決して口を開いた。


「……デリウス。エミリオ殿下と、お知り合いなの……?」


 その声は、どこかおそるおそるとした響きを帯びていた。詮索するつもりはなかった。だが、目の前の光景があまりにも「説明のつかない関係性」を物語っていたのだ。


 問いかけられたデリウスは、ぴたりと動きを止めた。


 口を開きかけて、また閉じ、そしてまた開く。まるで適切な言葉が見つからず、言葉を飲み込んでは喉に詰まらせているようだった。


「お……お嬢様、それは……」


 口をまごつかせる声には、確かな戸惑いがあった。


 ロザリエはそんな彼の様子をじっと見つめながら、答えを待った。

 その視線には、冷たさも詮索の意図もない。ただ純粋に、知りたかったのだ。自分が知らない彼の過去を、目の前で明かされようとしている事実を、きちんと受け止めたかった。


 そして、その緊張を破ったのは、またしても、エミリオだった。


「ロザリエお嬢様」


 明るく響く声に、ロザリエもデリウスも一瞬だけ肩を揺らした。


「実はですね……デリウスは、前の僕の————専属の従者だったんですよ!」


 にっこりと笑いながら、エミリオは何の気負いもなく、爆弾のような事実をさらりと告げた。


 ロザリエの目が、大きく見開かれる。


「せ、専属……?」


 彼女はただ、その言葉の意味を咀嚼することすら追いつかず、呆然とデリウスとエミリオを交互に見やった。


「えぇ、僕が幼い頃からずっと、(つか)えてくれていた奴でして」


 エミリオがそう言って笑いながらデリウスの背を軽く叩くと、デリウスは肩をすくめるようにして無言でそれを受け止めた。


 ロザリエは、その言葉を反芻しながら、ふっと小さく息を吐いた。


「……そ、そうだったのですね」


 口に出してみて、ようやく腑に落ちる思いがした。


 ずっと気になっていたのだ。デリウスの言葉遣いや所作、立ち居振る舞い。

 どれもが「従者」としては過分で、どれほど教養を積もうとも、平民出の使用人に自然に身につくはずのない気品が滲んでいた。


(まさか……隣国の、王太子の従者だったなんて……)


 驚きと共に、妙な納得が胸に満ちる。


「デリウス、言ってくれればよかったのに……貴方が、ルトワーズの王太子殿下の……その、専属の従者だったなんて」


 ロザリエは、驚いたように目を見開いたまま、彼を真っすぐに見つめた。

 その声音には、感情の波はあれど、寂しさや怒りといった色はなかった。ただただ、意外性に満ちた出来事を前にしたときの、素直な驚き、それだけだった。


 デリウスは居心地悪そうに、視線を宙に彷徨わせる。

 まるで、どこにも視線の置き場を見つけられないかのように。


「も、申し訳ありません……ですが……その、報告するような事でもないかなと思いまして……」


 消え入りそうな声でそう答える彼の横顔を、ロザリエはじっと見つめる。


(……充分、凄い事じゃない?)


 正直な感想だった。

 王族の従者というだけでも特別だが、ましてや〝専属〟とあれば、ただの家臣や護衛などでは到底務まらない。信頼も能力も、相応の格がなければ任されるものではない。


 それを「報告するほどでもない」と口にするなんて、どれほど慎ましすぎるのか。


 あるいは、どこか、語りたくない理由があるのか。






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