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30 王子の来訪


 ロザリエは授業の終わりを告げる鈴の音を耳にしながら、机の上の書類をそっとまとめた。窓の外に射し込む夕暮れの柔らかな光が、教室の壁を淡く染めている。彼女は一日の疲れを胸に感じつつ、静かに席を立ち、足早に教室を後にした。


 廊下を歩き始めたその時、背後から低く穏やかながらも明確な声が響いた。


「ロザリエ・ジークベルト様、お時間を少しいただけますでしょうか」


振り返ると、教師の一人が控えめな表情で立っている。彼の手には、一通の書類が握られていた。


「えぇ。……何か?」

「……実は、隣国ルトワーズ王国の王太子、エミリオ・ルトワーズ殿下が、この学園を訪れております。リチャード・ブルクハルト殿下とロザリエ様に、直接ご挨拶をしたいとのことです」


 突然の知らせに、ロザリエの胸はわずかに高鳴った。唐突な訪問……それは単なる形式的なものではないだろう、そんな予感が彼女の中に静かに芽生えた。


「わかりました。すぐにお伺いします」


 彼女は軽く会釈をして教師の後に続いた。


 ロザリエは教師に導かれながら、静かな学園の廊下を進む。足音がひそやかに響くその先には、すでにリチャードが立っていた。あの一件が影を落としたのだろうか、彼はどこか気まずそうに目を伏せ、ロザリエから視線をそっと逸らしている。


 リチャードのその微妙な様子を見つめる間もなく、教師が穏やかな声で告げた。


「この部屋です」


 続けて控えめなノックが扉に響き、教師はゆっくりと扉を開けた。そして促すように、ロザリエとリチャードを中へと案内した。


 部屋に入った途端ロザリエの視線は、自然とその青年へと引き寄せられた。


 白銀の髪はまるで月明かりを纏ったかのように艶やかで、軽やかな光を反射して煌めいている。瞳はまるでイエローダイヤモンドのように透き通り、吸い込まれそうな美しさを湛えていた。


「エミリオ様、こちらがリチャード殿下と、ロザリエ殿です」


 教師の言葉に、エミリオは静かに顔を上げ、その美しい瞳で二人をじっと見つめる。彼の視線は鋭くも温かく、まるで相手の心の奥まで見通すかのようだった。


 リチャードは少し緊張した様子で頭を軽く下げ、ロザリエもまた、礼儀正しく一歩前に出て軽くお辞儀をした。


 その場の空気が一瞬だけ静まり返る。


 突然、エミリオは椅子から軽やかに立ち上がり、颯爽とリチャードとロザリエの元へと近づいてきた。その予想外の動きに、ロザリエは思わず冷や汗を滲ませる。何が起きるのだろうと胸の鼓動が早まった。


 しかし、形の整った唇から溢れた言葉は————。


「リチャード殿下〜!お久しぶりですねぇ。会ったのはいつぶりですか?あ、六年と五ヶ月ぶりですよ!あはは、背も伸びましたね」

「え、えぇ、その節はどうも……」


 彼は一瞬きょとんとしながらも、ぎこちない笑みを浮かべて、差し出された手を取る。


 その明るい声色と、どこか冗談めかした言い回しに、場の空気は一気に和らいだ。ロザリエは驚きの中にほっと胸を撫で下ろしながらも、エミリオの人懐っこい笑顔をまじまじと見つめていた。


 その時、エミリオの視線がふと、ロザリエへと向けられる。彼の瞳がじっと彼女を捉えた瞬間、思わずロザリエは肩を小さく震わせてしまう。胸の奥で冷たい緊張が走り、わずかに息が詰まった。


 だが、エミリオはその反応に気づくことなく、むしろ嬉しそうな笑みを浮かべて、朗らかな声で告げた。


「貴方がロザリエ・ジークベルト公女様!お噂は予々伺っておりました……!」


 ぱあっと花が咲くような表情で、続ける。


「いやはや、実にお美しい!」


 その言葉はあまりにも率直で、あっけらかんとしていて、かえって反応に困るほどだった。まるで相手が王女でも淑女でもなく、気になる絵画か、目を惹かれた風景にでも出会ったかのような、そんな自然な賛辞。


 ロザリエは言葉に詰まりながらも、無理に笑みを作って軽く会釈するのがやっとだった。


(……この人、本当に王太子?)


 どこまでも人懐っこく、屈託のないその姿に、再びロザリエの中で疑念がよぎった。だが同時に、不思議と嫌悪感はなかった。むしろ、目の前の青年が持つ無防備な光に、ほんの少しだけ、心が緩むのを自覚していた。


「それにしても……僕は学園に通っていなかったものですから。いやぁ、なんだかこういう場は新鮮ですねえ」


 彼は部屋の中をひょいひょいと歩き回り、壁際に並んだ古書や飾り皿を覗き込んだり、手を後ろに組んでカーテンの裾をつまんでみたりしている。その様子はまるで、貴族の子息が初めての寄宿舎に案内された時のような……

 どこまでも無邪気な喜びに満ちていた。


 ロザリエは、そのあまりの無邪気さに戸惑いながらも、疑問を抑えきれずにいた。彼のような立場の人間が、事前に何の通達もなく、いきなり学園を訪れるなど、あり得ない。

 そう思いつつ、ふと我に返り、意を決して声をかけた。


「あの、エミリオ殿下……本日は何故、学園に?」


 彼女の声に、エミリオはぱっと振り返った。その顔にはまったくの曇りがなく、無垢な笑顔が咲いていた。


「もうすぐリチャード殿下のご卒業が近いと聞いて……卒業式に参加させていただきたくて、来日しました!」


 そう言うと、胸に手を当てて、やや芝居がかった調子で続けた。


「いやあ、同じ王太子として、是非お祝いさせていただきたくて」


 明るく、堂々とした口調だった。


 その一言に、リチャードの目が見開かれ、ロザリエも思わず息を呑んだ。まるで、ただの旧友を訪ねるような気軽さで。しかも、卒業式への参加。


(こ、こんな非公式な形で……?)


 リチャードは言葉も出ないまま硬直し、ロザリエも驚きで声を失っていた。


 部屋の隅に控えていた学園長が、ようやく沈黙を破るように立ち上がった。彼の顔はこわばり、口元は引きつり、額にはじっとりと汗が滲んでいる。


「じ、事前にご連絡いただければ……!お部屋のご用意も、護衛の手配も、何の準備もしておりませんし……!」


 他の教師たちもざわめき始め、応接間には一気に落ち着かない空気が満ちる。だが、当の本人は、いたって穏やかに肩を竦め、笑いながらこう言った。


「申し訳ありません、ふと思い立ってすぐ行動してしまったものですから」


 彼は軽やかに手をひらひらと振って謝罪しつつ、相変わらずのんびりとした笑顔を浮かべる。


「あ、護衛は三日後にルトワーズから到着するので、ご心配なく」

「で、では……お部屋の準備を早急にいたします……!」


 学園長は、エミリオの言葉に冷や汗をぬぐいながらも、懸命に礼を失わぬよう努めて立ち上がった。

 慌てて周囲の教師たちに視線を投げ、何人かが小さく頷いてその場を動こうとした、まさにその時。


「僕は馬小屋でも寝れますが?」


エミリオが再びにこやかに言い放った。


 無邪気とも天然ともつかないその一言に、場の空気が一瞬で凍りつく。教師たちの動きがピタリと止まり、リチャードは顔を覆うようにして俯き、ロザリエは思わず天井を見上げた。


 沈黙の中、ついに痺れを切らした学園長が、低く震える声で返す。


「……ダメです!!」


 その言葉には、半ば懇願に近い切実さが込められていた。


「れ、れっきとした王太子殿下を、馬小屋などにお通しできるわけがございません!ご冗談にも程が……いえ、じょ、冗談と理解はしておりますが、しかし……!」


 言いながら、学園長は自らの言葉に絡まっていく。追い詰められた役人のようなその姿に、ロザリエは思わず肩を竦めた。


「そうですか。ちょっと牧草の香りが恋しくなる時もあるんですけどねえ」

「それは家畜の感覚です、殿下……!」


 若い教師が思わず突っ込んだ声を上げ、またしても応接間には奇妙な沈黙とざわめきが広がった。


 だが、その空気の中心に立つエミリオは、やはり何一つ変わらぬ笑顔のままだった。場の秩序を崩しながら、なぜか誰からも憎まれない————そんな不思議な存在感が、確かに彼の周囲に漂っていた。


(……おかしな人)


 ロザリエはその姿を見つめながら、静かに思った。






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