29 ルトワーズにて
昨夜の夜の祝宴は、何事もなく静かに幕を閉じた。会場は煌びやかな装飾で彩られていたが、リチャードがその後一度も姿を現さなかったことが、会場の空気に微かな波紋を広げていた。
カリナはその事実に、ほんのりと困惑を浮かべていた。いつもなら堂々と振る舞う彼女の表情に、わずかな影が差しているのが見て取れた。
一方、ロザリエは早めに祝宴の場を後にし、静かに自室へと戻った。夜も深まり、冷え込む空気の中、部屋の扉を開けると、待っていたデリウスが笑顔で「お帰りなさいませ、お嬢様」と優しく迎え入れた。
ロザリエはすぐに、リチャードに指輪を取り上げられてしまったことを話し、心からの謝罪を口にした。
だが、デリウスは一瞬だけニヤリと笑みを浮かべると、すぐにいつもの穏やかな表情に戻り、「お気になさらず」と柔らかく返した。その言葉に、ロザリエは少しだけ心を軽くされた気がした。
♦︎
ルトワーズ王国、王宮の静かな書斎で、軽やかな声が響いた。
「レイヴン〜」
その呼び声に従者のレイヴンはすぐに返事をし、きびきびと姿勢を正して青年の前に直立する。書斎の中央、重厚な木製の椅子に深く腰掛けているのは、黄金色の瞳を優雅な弧の形に細めた青年だった。彼は無造作に、しかしどこか威厳を保ちながら、手にした書類の束を乱雑にレイヴンへと差し出した。
「これ、頼まれてた毒の解析と生成方法ね。あ、ついでに〝照合〟も済ませてそれも記載しといたからデリウスによろしく言っといて」
その声は軽快で、少しばかり茶目っ気のある響きを含んでいた。レイヴンは受け取った書類に目を走らせながら、たしなめるように言った。
「あの、もう少し丁寧に扱ってください……これ、一応王太子のルーデリウス殿下に渡す機密文書なんですよ?」
「はは、アイツはそんなの気にしないから大丈夫だよ」
青年は白銀の髪を靡かせながら、ケラケラと笑った。
「ゴリゴリ気にします!アンタの代わりに怒られるの、俺なんですからね!?ちょっと!聞いてます!?エミリオ様!?」
レイヴンの怒鳴り声が、室内に甲高く響いた。
その呼びかけに、ようやく反応を見せたのは、書類の束を膝に置いたまま、優雅に椅子へと身を沈めていた一人の青年だった。
レイヴンに怒鳴るようにして名を呼ばれたその青年————エミリオ・ルトワーズは、口元にふっと微笑を浮かべた。
「ん?ああ、ちゃんと聞いてるよ」
のらりくらりと返すその声音には、悪びれた様子など一切ない。むしろ、叱られることすらも楽しんでいるかのような、どこか飄々とした空気が漂っていた。
金のように輝く瞳が、手元の書類からゆっくりと持ち上がり、目の前で仁王立ちする従者、レイヴンを見つめる。叱責も苦言も、彼にとっては心地よいBGMのようなものなのだろう。
「レイヴンって、怒ると耳まで赤くなるんだね。おもしろーい」
「ふざけないでくださいよ!もう!」
レイヴンは机を挟んで身を乗り出しながら、深いため息をついた。
この男、エミリオ・ルトワーズは、ルトワーズ王国の王太子である。
銀糸を織り込んだような滑らかな白銀の髪と、ルトワーズ王家特有の煌びやかな黄金の瞳を持ち、外見だけを見ればまさに、絵に描いたような理想の王子だった。
……ただし、性格を除けば、の話だ。
彼は根っからの研究者気質であり、悪く言えば〝研究バカ〟。
幼い頃から、魔力を持って生まれながら、魔法にはさほど興味を示さず、専ら薬草学や毒物の構造解析にばかり情熱を注いできた。
その偏りきった興味関心に、父王であるルトワーズ国王はたびたび頭を悩ませているという。
何しろ「第一王子が王族主催の舞踏会をすっぽかして、毒草の自生地にこっそり一人で赴いていた」などという前科まであるのだ。
まったく、王太子なのに、なんでこの人はこうなんだ……!とレイヴンはエミリオを睨み付ける。
「ねぇレイヴン〜、この薬、昨夜完成したんだけどさぁ」
ふいに、机に山のように積まれた書類の隙間から、小さなガラス瓶をひょいと取り出すエミリオ。瓶の中には濁った黄緑色の液体が、ゆらりと揺れていた。彼はそれを指先でくるくる回しながら、悪戯を思いついた子供のように瞳を輝かせて言った。
「なんかさ、三日洗ってない服の匂いがするんだ。不思議だよね〜。嗅いでみて?」
「……は?絶対に嫌ですよ!?なんですかその地味に嫌な匂いの薬品!」
レイヴンは思わず一歩後ずさり、顔をしかめた。だがエミリオは楽しげに立ち上がり、にじり寄ってくる。
「いいじゃん、実験だよ実験!嗅覚の反応を記録したいんだ。はい、はい、協力して〜?」
「しませんってば!それ、何の成分入ってるかも分かんないやつでしょう!?見た目からして明らかに怪しいし!」
レイヴンがぎゃーぎゃーと騒いで抵抗すると、エミリオは楽しそうにケラケラと笑った。
一通り笑うと、エミリオは「ふー」と一つ息を吐き、軽やかな動作で椅子に深く腰を下ろした。白銀の髪がゆるやかに揺れ、黄金の瞳がふとレイヴンに向けられる。
「ところでさ、レイヴン」
急に声のトーンが落ち着いた。笑っていた口元が引き締まり、視線にかすかな鋭さが宿る。先ほどまでふざけていた人物とは思えぬほど、急転直下の変化だった。
「……はい?」
レイヴンも真顔に戻り、姿勢を正す。
「こういうの、困るんだよね〜。お前に聞いてたのは毒の解析と生成方法だけだったのにさ」
エミリオは椅子に深く腰掛けたまま、手に持っていた書類の束を適当にめくりながら、少し呆れたように呟いた。
その声には軽い苛立ちが混じっていたが、どこか楽しげでもある。彼の金色の瞳はちらりとレイヴンを見て、その様子を見透かしているようだった。
「え?なんの話ですか?」
レイヴンは口元を引くつかせ、ルーデリウスがまた何かしたのではと彼に責任を押し付けた。
「これ、なーんだ」
エミリオは声を潜めながらも、どこかからかったような調子で言い、羊皮紙を取り出してひらひらとレイヴンの前で揺らした。レイヴンはそれを恐る恐る受け取り、ゆっくりと目を凝らす。そこには〝ルトワーズ王国の国宝〟と称される、煌めく美しいネックレスの貸出許可についての正式な文書が記されていた。
手紙の筆者はエミリオであり、内容はルトワーズ王国の国宝であるその貴重なネックレスを、ルーデリウス殿下に貸し出す許可を得たというものだった。
さらに、ルーデリウス自身がこのネックレスに特別な保護魔法を施し、傷ひとつ付けることのないよう厳重に管理する旨の約束も記されている。
レイヴンの目が大きく見開かれたかと思うと、彼は書類を両手で握りしめ、まるで落雷でも受けたかのような衝撃の表情を浮かべた。
「え!?国宝の……あのネックレスを、ルーデリウス様に貸出!?ちょっと!アンタ何考えてるんですか!国王陛下の胃に何個穴を空ければ気が済むんですか、この親不孝者!」
レイヴンの声は、書斎の壁に反響するほどだった。
そんな従者の過剰な反応をよそに、エミリオはと言えば、相変わらずのんびりと肘掛けに肘を預け、頬杖をついたままの姿勢で、にっこりと微笑みを浮かべていた。
「ちょっと?僕は何も悪くないからね?むしろ許可を出したことに感謝して欲しいくらいだよ。父上の署名までちゃんと取ったんだし」
「署名!?国王陛下の!?」
レイヴンはさらに目を剥いた。額に青筋が浮かび、もはや頭を抱えそうな勢いでぐったりと肩を落とす。
「お前がちゃーんと書類を読み込まないのがダメなんだよ?レイヴン。だから父上の胃に穴が空いちゃうんだ」
「は?俺に責任転嫁しないでくださいよ!」
怒りと呆れを押し殺しながらそう言うと、レイヴンは詰め寄る勢いで机の端を掴んだ。その様子を見て、エミリオはまるで風に舞う花びらのような軽やかさで肩をすくめ、ひらりと笑ってみせた。
「これさ、お前が持ってきたデリウス直筆の手紙ね。よく見なよ」
そう言って、彼は一枚の書類を指先でつまむと、ひょいとレイヴンの方へ差し出した。レイヴンは不穏な予感に眉を寄せつつ、それを慎重に受け取る。見覚えのある筆跡。まぎれもなくルーデリウスの、あの整った、けれどどこか古風な手書き文字だった。
一行、一行、慎重に視線を走らせていく。書かれているのは毒の解析依頼と生成方法に関する詳細。ここまでは間違いない。だが、文末まで読み進めたレイヴンの手が、ピクリと止まった。
手紙の端、まるで誰にも気づかれないようにと願うかのように、余白に押し込まれるような小さな文字でこう記されていた。
《追伸:ルトワーズ王家のネックレスの一時的な貸出を許可していただけると幸いです。対象物には私自身で保護魔法を施し、傷一つつけぬよう細心の注意を払います。》
「……っ!?」
レイヴンは一瞬、目を疑った。再びその一文を見返す。文字の形、大きさ、筆跡、すべてが間違いなくルーデリウスのものだ。
「ちょっ……!こんなの聞いてない!こんなの……こんなの聞いてないですってばああああ!!」
レイヴンの叫びにも似た悲鳴に、エミリオは頬に手を当てながら、まるで演劇でも観ているかのように優雅に笑う。
「いや〜、デリウスもやるよねぇ。まさかあんな小さく書いてくるとは思わなかったけど、まあ、お前が気づかないだろうって計算した上での仕業だろうな〜」
「わざとですよね!?これ、絶対わざとですよね!?嫌がらせだ……俺がこの前、ルーデリウス様の初恋がロザリエ様だって揶揄い倒したから……!」
「え、何それ気になる。後で詳しく教えて」
軽すぎる返答に、レイヴンは泣きたくなった。
エミリオは「さてと」と呟いて椅子から立ち上がる。上着の裾を軽く払って、窓辺の明かりを背に受けながら、くるりとレイヴンの方を振り返った。
「そうそう、レイヴン。お前には……そうだな、暇を与えるよ。三日ぐらい」
「えっ! いいんですか!?」
崩れていたレイヴンが勢いよく顔を上げ、ぱっと花が咲いたように表情が明るくなる。目には涙すら浮かび、頬はほんのりと紅潮していた。
やっぱりこの人、変人だけど、毎日朝から晩まで呼び出しと命令を繰り返してくるルーデリウス様よりは……マシかも……!
そんな希望に満ちた目で未来の王子様を見上げるレイヴン。しかし、彼がふと呟いた一言が、すべてをぶち壊す。
「あ……じゃあその書類と国宝のネックレスをルーデリウス様に届けてから……」
その瞬間、エミリオの足がぴたりと止まった。
「いや」
そのひと言にはっきりと拒絶の意志がこもっていた。
「僕が直接行くよ。お前は休んでなって」
レイヴンは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。ぽかんと口を開け、瞬きを一度、二度。
そして……
「……へっ?」
レイヴンは思わず、あんぐりと口を開けた。思考の歯車がガタガタと音を立てて空回りしている。まさか、あのエミリオが自ら動くなどと、予想すらしていなかった。
「な、ななな何を言い出すんですか!?機密文書と国宝を、アンタ管理できるんですか!?」
声が裏返りそうになるのを必死に堪えながら、レイヴンは全身で止めにかかった。だが、当の本人は悪びれる様子など微塵もない。肩をすくめ、少しふてくされたように言い返した。
「酷い言いようだな。僕は一応お前の主人なのに」
「主人以前の問題ですってば!ルーデリウス様相手の用事なんですから、アンタは大人しくしててくださいよ本当……!」
レイヴンの声には、もはや哀願と怒りと恐怖が入り混じっていた。だが。
「やだ」
エミリオはあっさりと拒否した。唇を歪めて、子供のように楽しげな笑みを浮かべる。
「久しぶりにデリウスにも会いたいし、それに、デリウスの初恋の人も、どんな令嬢か気になるしなぁ〜」
ぐっ、とレイヴンの心臓が跳ねた。
……あの時の揶揄いが、ここに来てブーメランのように刺さるとは。背筋に冷たい汗が流れたのは言うまでもない。
「じゃ、そういう事だから」
気軽すぎる別れの言葉とともに、エミリオは機密文書であるはずの書類をポケットにぐしゃりと突っ込み、室内の片隅、書類の山が無造作に積まれた混沌の中から、まるでお菓子でも取り出すかのように、箱を一つ抜き取った。
中には、淡く輝く宝石の連なったネックレス。国宝、ルトワーズ王国の誇る、由緒正しき護符付きの宝飾品。
それを、無造作に片腕で抱えあげたかと思えば、まるで市場帰りの荷物のように持ったまま、エミリオはひらりとドアの向こうへと姿を消した。
……と思ったら、すぐにドアの隙間から、ひょこりと顔だけを出した。
「あ、僕は先に行くから。レイヴンもあとから来てね。ほら、今から準備して」
その軽やかな口調に、レイヴンはぎょっと目を見開いた。
「……え?いや、俺、三日休みもらえるんですよね?」
問いかけたのは、ごく当然の確認のつもりだった。三日間の休暇を与えられたと思ったら、今度は今からブルクハルトに行けとは、どういうことだろうか。ルトワーズからブルクハルトへは馬車で丸三日……
「うん、だから三日間暇じゃないか」
あまりにも屈託のない返答に、レイヴンはしばし呆気に取られた。が、すぐに眉を吊り上げ、口を大きく開けて叫んだ。
「いや、いやいやいやいや!!馬車でブルクハルトまで三日かかるんですよ!?移動だけで終わる三日間って、もう完全に公務じゃないですか!!」
レイヴンの声が段々と大きくなる。だがエミリオは悪びれるでもなく、ニッコリ笑って返す。
「でもさ、移動中って特に何もないし?座って寝てるか、ぼーっとしてるか、本読んでるかだし。それって暇ってことでしょ?」
「違います!!それは『業務中に発生した隙間時間』です!紛れもなく任務の一環です!!それはもう、休暇ではありません!!!」
「えー……堅いなあ、レイヴン。詩的に言えばさ、馬車の車輪に揺られるその時間こそが、日常の喧騒から解き放たれる癒しの旅ってやつだよ」
「癒しどころかストレスしかないんですけど!?つか!!行くなら一緒に行けばいいでしょ!?転移魔法で一瞬だし!俺、三日間馬車に揺られるんですよ!?何そのスピード差!!」
「うーん、でも一緒に行ったら退屈でしょ?僕、寝てるし」
「俺も寝ますよ!?その〝僕が退屈しないためだけに人を置いていく〟思想やめてもらえます!?!?」
声を張り上げ、肩で息をしながら訴えるレイヴン。しかし、目の前の主はというと。
「あはは、レイヴンってば本当に面白いなぁ」
まるで冗談を聞いているかのように楽しげに笑いながら、エミリオはネックレスの入った箱を片手にひらりと身を翻す。
「じゃ、よろしく〜。くれぐれも途中で酔わないようにね?」
そう言い残すと、エミリオは片手をひらひらと振りながら、ドアの向こうへとすたすた歩いていってしまった。
レイヴンが何かを言い返す暇すら与えず、扉はぴたりと閉まる。
「…………」
残されたレイヴンは、絶句したまま石像のように立ち尽くしていた。
「えっ、ちょ、まっ……本当に行った……!?マジで……ッ!?あの人……行っちゃった……!?!?」
額に手を当て、ぐらりと身体をよろめかせるレイヴン。
これは……後で怒られるの、絶対俺だ。
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