28 共犯
冬の祝宴の夜。石造りの学園には、いつもとは違う華やかさが満ちていた。高貴な衣擦れの音と、音楽隊の奏でる舞踏の調べがホールの奥から響き、幾多の蝋燭の灯が煌めく廊下を揺らしている。
だがその喧噪から少し離れた静謐な一室————サロンの奥で、ゲラルド・オーディット伯爵はただ一人、静かに紅茶を口にしていた。
彼がこの学園を訪れたのは、娘カリナからの招待を受けてのことだった。表向きには、娘の晴れ舞台に顔を出す父として、また王宮との交流の一環としての賓客の立場。だが、そのどれもが建前に過ぎない。
本当の目的は、たった一つ。
毒を届けるため。
それだけだった。
かつて娘から渡された、お気に入りの香水瓶の中に、あの毒を忍ばせて。
ゲラルドは娘カリナの「忘れ物を学園に送る」という言葉通りに、それをきっちりと届けた。任務を終えた今となっては、この場に留まる理由もない。
そんな中、静謐なサロンの空気が、突然の音で破られた。
————バンッ!
扉が乱暴に開かれ、冷たい夜気を巻き込んで若い青年がなだれ込むように姿を現す。青ざめた顔、荒い息、額に浮かぶ汗。外套を乱したその姿は、今宵の祝宴のために着飾った王子とはとても思えなかった。
「ゲラルド殿……っ!」
リチャードは足元もおぼつかぬ様子で駆け寄り、危うく転びかけながら、応接椅子に腰を沈めていた男————ゲラルド・オーディット伯爵の前に立ちはだかった。
しかし、ゲラルドは動じない。
紅茶のカップを持つ手を少しも揺らさず、僅かに視線だけを上げてリチャードを見た。鋭く、冷たく、それでいてどこか底知れぬ静けさを湛えた眼差しだった。
「……ずいぶんと慌ただしく登場なさる。祝宴の主賓ともあろう方が」
その声音には、皮肉とも軽侮ともつかぬ柔らかな響きがあった。
だが、リチャードには余裕がない。
「話が違う……!ゲラルド殿、あれは……あの指輪は……!」
何を言おうとしているのか、自分でもわからないまま、言葉が口から零れていく。握り締めた右手には、今なお温もりを残したままの、銀色の指輪。
リチャードの瞳は血走り、今にも錯乱しそうなほどに揺れていた。
「ロザリエが……奴の指輪を……どうして……っ!」
ゲラルドは、カップを受け皿に静かに戻すと、ふう、と一つ息を吐いた。
「……落ち着いてください、殿下。今宵の紅茶は、心を静めるハーブが入っておりますよ。ひとつ、いかがです?」
「それどころじゃない……っ!」
リチャードは、血走った目を大きく見開き、震える指先で握ったままの銀の指輪を突き出した。彼の喉からは、今にも咽び泣きが漏れ出しそうな叫びがほとばしる。
「兄上はッ……ルーデリウスは死んだはずだッ!」
怒声と共に、足を踏み出す。重く湿った靴音がサロンの床に響いた。
「貴方の、あの毒のせいで……!僕は、兄上の紅茶に、貴方から渡されたものを……!」
声は震え、喉は掠れ、だが止まることはない。理性が追いつかず、口が先に言葉を漏らす。
「……それで終わったはずだった。兄上は……落ちて、二度と戻ってこないはずだった!」
リチャードは、まるで発作のように胸をかきむしり、目の前の男を睨みつける。その顔には怒りと恐怖と混乱が渦巻き、ただ〝何かにすがりつきたい〟という本能だけが彼を支えていた。
「……えぇ。ルーデリウス殿下は、五年前に亡くなられましたな。それが、何か?」
そう言い放ちながら、ゲラルドはカップをソーサーに戻した。陶器同士が触れ合う小さな音が、サロンの静けさを一層際立たせる。
だが、次の瞬間。
「これを……これを見ろ!!」
激しく震える手が、ゲラルドの前に突き出された。リチャードの拳の中で、ひときわ鋭い銀の輝きが灯り、宝石が光を反射してきらりと瞬いた。
ゲラルドは一瞬、反応を見せなかった。冷ややかな視線のまま、その小さな指輪をじっと見つめる。
「……それが?」
淡々とした声だった。だが、彼の目は微かに眇められ、掌の中の小さな証拠を警戒するように視線を逸らさない。
「これは……兄上のものだ……!」
声が震える。思い出すように、呪いのように吐き出された言葉。
「父上が、兄上の誕生日に贈った指輪だ。王家の魔力に反応する特別な魔法石が、嵌め込まれている……!」
ゲラルドの指が、わずかにカップの取っ手を強く握った。
「……それが何か証明になりますかな?」
ゲラルドは飄々とした調子を崩さずに言ったが、その声には微かな揺らぎが混じっていた。
「ロザリエが、これを着けていたんだ!兄上の指輪を……あの死んだはずの兄上の!」
その叫びに、ゲラルドのまなじりがわずかに吊り上がる。まるで胸の内のどこかが凍てついたかのような静かな衝撃。それでも彼は表情を崩すまいと努め、言葉を継いだ。
「……それが同じ指輪であるという確証は?」
「見ればわかる……!この細工、この石……兄上しか持っていない指輪だ!」
その目には必死の色が浮かんでいた。だがゲラルドは、変わらぬ表情でそれを眺めていた。
「似た意匠のものなど、いくらでもございます。仮にそれが殿下の兄上のものであったとしても……誰かが拾ったか、盗んだか、あるいは」
彼はそこでわざとらしく言葉を切り、意味深な笑みを浮かべる。
「……模倣品である可能性も、捨てきれませんな」
「違う……違うッ!」
リチャードの声が震える。否定の言葉は、必死に己の罪から目を背けようとする叫びのようだった。その場に崩れ落ちそうになりながら、リチャードは震える手で額を押さえた。荒くなった呼吸。胸の奥が焼けるように熱い。だが、それ以上に頭の中が、ぐらりと揺らぐ。
ロザリエが、何故、あの指輪を。
「あ……あぁっ……!ま、まさか……!」
ロザリエの背後に付き従っていた、一人の黒髪の男。
従者の身なりをしていたが、あの顔……あの目……!
「似てたんだ……兄上に……っ」
ぶつぶつと呟きながら、リチャードは無意識に立ち上がり、ふらりと後退した。手の中には、いまだ指輪が握られている。その冷たい銀の感触が、現実に引き戻そうとしてくる。
「でも、なんで……!兄上は、俺が……俺の手で……殺した……!」
あの日、渓谷の柵から落ちていった兄の背中。血の混じった咳。毒の苦しみに顔を歪めた、あの表情。
それらは紛れもなく「死の予兆」だった。そう思っていた。そう、思いたかった。
なのに、なぜ。なぜ、あの男が……
「……まさか。生きていた……のか……?」
喉の奥から、呻くような声が漏れた。吐き気が込み上げてくる。背筋に冷たい汗が流れる。
もし、あれが兄だったのだとしたら。
ロザリエの従者として、彼女の側にいるあの男が、本当にルーデリウスだったのだとしたら。
ぐらりと、視界が揺れる。
罪の意識など、今まで持ったことはなかった。必要だった。あれは、仕方なかった。そう言い聞かせてきた。だが。
もし彼が、生きていて。すべてを知っているのだとしたら。
次の瞬間、すっと肩に触れる重み。
ひやりとした、しかし迷いのない圧力だった。
「……冷静になられよ。リチャード・ブルクハルト殿下」
深く落ち着いた声音が、背筋に触れるように響く。ゲラルド・オーディットの手が、揺れる王子の肩に置かれていた。
その瞬間、リチャードは雷に打たれたかのように目を見開いた。
「……ゲラルド殿……」
だが、目の前の伯爵は動じない。ただ静かに、まるで王宮の奥に敷かれた赤絨毯のように重厚な口調で続けた。
「ルーデリウス殿下は、あの日……渓谷にて亡くなられた。そうですな? レペグリアの毒が、殿下の紅茶に混入されていた……」
リチャードの喉が、きゅっと詰まるように鳴った。
「私は、あの毒が即座に命を奪うものでないと申しました。しかし…… 殿下はあの毒を、思ったより多く入れられたのでは?」
「っ……そんな、僕は……!」
言い訳は、声にならない。
ゲラルドはそんなリチャードの狼狽を眺めながら、なおも言葉を重ねる。静かに、決して怒りも哀れみも浮かべることなく。
「死体は、川に流された。あの渓谷の下を流れる急流に、彼の身体は落ち、姿を消した。今もなお、見つかっていない……ですが、それがすべてだったはずです」
冷たく、重い沈黙が落ちた。
リチャードの瞳が揺れる。確かに、そうだった。自分は兄を突き落とした。毒を飲んで苦しむ兄を、突き飛ばした。
あのとき、確かにルーデリウスは川に落ちたのだ。渓谷の底に吸い込まれていった。
「……ですが」
ゲラルドの声音は、あくまで穏やかだった。だが、その言葉の裏に含まれた静かな緊張は、リチャードの胸をじわじわと締めつけてくる。
「その指輪が現に存在する以上……ルーデリウス殿下が、生きておられる可能性は、ゼロではありませんな」
言い終えたゲラルドの目が、ふと鋭くなる。まるで一瞬だけ、表情の仮面を脱ぎ捨てたかのように。
「……少々、わたくしも探ってみましょう。その間、その指輪は殿下に管理していただきたい」
「な、なぜ僕が……!?」
リチャードは思わず声を上げていた。
乾いた喉に言葉がつっかえる。汗が背筋を流れ落ち、首元を伝って衣服の下へと染みていく。握りしめていた指輪の重みが、急に増したように感じられた。
ゲラルドは、まるでそれを予期していたかのように、淡々と続ける。
「それは、国王陛下がルーデリウス殿下の生誕に際して、特注された唯一無二の品。王家の証でもあります。つまり、それは王家の所有物ということです」
リチャードの喉がひくりと動いた。
「……であれば、それを第三者である私が持っているより、王太子であられる殿下が保管されていた方が、ずっと自然かと」
淡々と語られるその言葉には、ひと欠片の強要もなかった。だが、どこか逃れようのない選択を突きつけられているようで、リチャードの背筋をじわりと冷たいものが這い上がる。
「っ……わ、わかった……」
絞り出すように返した声は、どこまでも弱々しかった。彼自身の中から、意志というものが抜け落ちてしまったようだった。
握りしめた拳の中で、銀の指輪が無言の存在感を放っている。
指先は白くなり、関節は痺れるほど強張っていた。けれど、彼は放せなかった。もう、指輪が手の中にあるだけで、皮膚の奥まで兄の視線が突き刺さってくるような気がしてならないのに。
ゲラルドは、そんなリチャードを見つめながら、静かに一礼した。
「ありがとうございます、殿下。それでこそ、次代の王にふさわしいご判断です」
リチャードは返事をしなかった。
ただ、荒くなる呼吸を必死に押し殺すようにして、視線を指輪から逸らすことができずにいた。
閲覧ありがとうございました!!
評価やブックマーク、いつも励みになっております!!




